column 10 of bunkanokaze

小説と一味違うオペラ「カルメン」
○…今回演奏されるサラサーテの「カルメン幻想曲」は、ビゼー作曲のオペラ「カルメン」が1875年にパリで初演されてから8年後に楽譜が出版された。ビゼーの「カルメン」はフランスの作家プロスぺル・メリメが1845年、43歳の時に発表した小説「カルメン」をもとにしているが、メリメは初演の5年前に既に死去していた。当時のオペラ界はカルメンのような下層とされていたロマ民族(ジプシー)を扱うことはなかった。作曲を依頼したオペラ・コミック座は自由奔放なカルメンを登場させると聞いて驚き、ビゼーも折れて台本作者と協力して原作をかなり変えている。それでも初演は成功せず、人気が出たのは初演から7カ月後のウイーン国立歌劇場での公演からだ。だがビゼーは初演の3カ月後その成功も知らず亡くなっている。(続きを読む)

○…小説と一番大きな違いは、小説にはないホセの婚約者ミカエラの存在だ。カルメンの言いなりに密輸仲間になったドン・ホセをはるばる山中に訪ね、母の様子を伝える愛らしい役で、大胆なカルメンとは対照的だ。浮気っぽいカルメンはホセの次に闘牛士エスカミーリョにほれ込む。オペラでは「闘牛士の歌」を歌って格好いいのだが、原作ではルーカスという名でほんのちょっと出てくるだけ。しかも闘牛場では馬の下敷きになって、牛に突き倒され「その上に牛が乗ってしまった」(杉捷夫訳)というなんとも情けない有様になる。そのほか、小説のカルメンには、実は獄中に片目で冷酷な夫ガルシアがおり、獄から出て密輸の仲間になるが、嫉妬するホセは言いがかりをつけてガルシアと決闘し殺してしまう。オペラに出てくる密輸仲間の頭目ダンカイロは小説ではダンカイレという名で、山中で軍の狙撃にあって命を落とす。
○…こうして比較すると小説とオペラの「カルメン」は別物と言ってもいいくらい違う。映画化もサイレント時代から時折されているが、小説を映画化するよりもむしろオペラをもとに映画化している。それはビゼーの音楽が素晴らしいからであり、居酒屋リリアスパスチアでの踊りがあったり見せ場が多いからだろう。戦後間もなく上映されたフランス映画では妖艶なヴィヴィアン・ロマンスがカルメンを演じ、「美女と野獣」のジャン・マレーがホセ役でともに適役だった。
                              (社会文化塾 関口 實)
  参考:「カルメン」(杉 捷夫訳 岩波文庫)、DVDオペラ・コレクション「カルメン」(デアゴスティー二)

  音楽は剣より強し
◯…ベートーヴェンは、フランス革命の英雄ナポレオンに交響曲を献呈しようとして、清書スコアの表紙に「ボナパルトへ。ルイジ・ヴァン・ベートーヴェン」という献辞を書いで準備していた。しかし、ナポレオンが皇帝に即位したという報を聞いて、「彼も普通の人間に過ぎなかったのか」と失望し、その献辞をペンでぐしゃぐしゃに消してしまい、その下に新たに「ある英雄の思い出を祭るために」としてイタリア語で「シンフォニア・エロイカ(英雄交響曲)」と記したのは有名な話。
 その後、ナポレオンがセントヘレナ島で亡くなったという報を聞いて、「私は彼の没落を予言していた」と言ったのは、第2楽章の葬送行進曲のことを指すと言われている。(続きを読む)

 ◯…1831年ショパンは故郷ワルシャワを出てウィーンを目指した。到着してから1週間後に、ワルシャワでロシアに対する反乱が起きたという知らせと、しばらくしてワルシャワがロシアの攻撃を受けて陥落したという知らせを受ける。ショパンは祖国を思い絶望と孤独に陥った。この時に書かれたショパンの作品が、俗に言う「革命のエチュード」である。
◯…1914年の第1次世界大戦の勃発はドビュッシーに衝撃を与えた.一時は真剣に銃を取って祖国を守りぬくことを考えた。しかし、彼は破滅するフランス文化をたとえわずかでも守ることが自分の使命だとして、再び作曲の筆を取り、ベルギーのアルベール1世とその兵士たちの善戦をたたえる「英雄的な子守歌」やピアノのための「12の練習曲」「白と黒で」「もう家がない子供たちのノエル」などを作曲した。そして、がんのため1918年3月ドイツ軍の砲声が聞こえるパリで息を引き取った。
◯…プーランクは第2次世界大戦中はパリに留まり占領下のレジスタンス運動に音楽を通じて参加し、ガルシア・ロルカの思い出に捧げられた「ヴァイオリン・ソナタ」、エリュアールの詩によるカンタータ「人間の姿」、アラゴンの詩に基づく「2つの詩」などを作曲した。
◯…カザルスはスペインでフランコが勝利を収めてのちは,南フランスのスペイン国境に近い小都市プラドに住み、スペインの難民救済に尽くしている。第2次世界大戦後フランコの独裁を認める国々への出演を拒否した。戦後、国連本部で「鳥の歌」演奏し、「故郷のカタルーニャでは鳥はピース、ピースと鳴く」と話したのは有名。
○…戦争は音楽家にもさまざまな影響を与えた。その時作られた作品には、作曲家のその時々の思いが込められ記録され昇華されている。それは演奏家によって我々に永遠に伝えられる芸術作品として残された。
                                   (社会文化塾 佐々木 邁)

  「心と脳」と音楽と
○…19世紀は、世界の中心はパリ、そしてナポレオンとベートーヴェンで幕が開いたという印象がある。「科学の世紀」といわれるこの時代は物理学の「エネルギー保存の法則」の発見、生物学の「進化論」「生物体の細胞説の確立」と現代につながる自然科学の業績が成し遂げられている。それでは、現在の21 世紀で自然科学の分野の大きなテーマは何かーそれは「認知科学」の分野にあるようだ。(続きを読む)

○…社会や環境の中で、人間が何かを感じ、知り、考える心のはたらきはどのような仕組みだろうか?それは脳の中でどのようにできているのか? 20世紀半ば、情報という概念を軸にして芽吹いた「認知科学」は人間の思考や言語、感情などを解き明かし、社会性や創造性の核心に迫りつつあるといわれる。
○…虹の色は日本の社会で育った人には紫、藍、青、緑、黄、橙(だいだい)、赤の7色に見えるだろう。フランス人も同じように7色に見える。ところが、アメリカ育ちの人には藍色抜きの6色に見え、ドイツだとさらに橙が消えて5色に見える人が多い。これは色を表す言葉が言語圏や文化圏でどのように共有されているかによる。
○…さらに人間の眼の神経細胞が少しずつずれた範囲の波長の光を受けて、光のエネルギーを脳の中で処理される情報に変換する。脳の中ではこの情報が種々の情報にさらに変換し、色の情報処理が行われる。脳のメカニズムは世界中の人々の間でそれほど違うわけではない。虹の色がいくつに見えるかという問題は、哲学、心理学、人類学、神経科学など個別に扱ってきた。それを認知科学では完全とは言えないまでも、次のように考える。「心」を概念や言葉やパターンのような情報を処理するシステムとみなすこと、「脳」を科学的、電気的な情報を処理するシステムとみなすこと、それによって色の違いは脳で処理された情報を、心のはたらきにより感じるーと認知科学では説明している。
○…心は物質ではない。従って、心は物質を相手にしてきた物理学や化学のような自然科学を直接応用できる分野ではない。未来に向けてあらゆる分野で認知科学が挑戦すべき課題があろう。音楽についても、リズムやピッチの効果から、人はなぜ音楽に親しむのかというテーマにいたるまで、人が音楽を感じ取る感性のはたらきが研究されている。言葉のはたらきにもリズムが重要であり、言葉と音楽の共通点を探る研究も行われてきた。
○…創造性にかかわる心のはたらきは、昔からいろいろな方法で探究されてきた。例えば、モーツァルトが年少の頃から名曲を創作できた理由を、学習や創作に費やした総時間の推計値から推測するような行動推測による方法がある。脳計測の発展の現状から心と脳のはたらきがさらに研究され、べートーヴェンの心が再現されるような科学の時代に入っているのかな、などと夢のようなことも考えている。
                             (社会文化塾 伊藤 泰雄)
 

共和主義の先駆者、ベートーヴェン
○…1870年の対プロシャ戦争の大敗をきっかけに、フランスのパリで花開いた「ベル・エポック よき時代」は、帝政と共和制の間で揺れ動く政治の混乱期から生まれた。しかし、時代は人民が主体となる共和制に傾きつつあった。その共和制主義の先駆者の1人がドイツ・ロマン派の巨匠ベートーヴェンで、文豪ゲーテと初めて会った折の興味深いエピソードが残されているので紹介しよう。(続きを読む)

 ○…オーストリアの有名な温泉地であるテルピツエでこの両巨匠は偶然に出会ったといわれている。ゲーテ63歳、ベートーヴェン42歳。初対面であった。ある日2人は連れ立って散歩していたが、たまたまオーストリアのルドルフ大公一行とぶつかった。皇后も一緒だった。ルドルフ大公はベートーヴェンの庇護(ひご)者であり、例の「大公」トリオを捧げたルドルフ大公その人であった。ゲーテは行き会った途端にベートーヴェンと組んでいた腕を振り解いて道を開け、道端にかしこまった。一方、ベートーヴェンは帽子を目深にかぶり両腕を背に組んで、昂然(こうぜん)と人波を押しのけて進んだ。皇帝の方が帽子を取って彼に目礼を返したといわれる。皇后すら自分の方から挨拶の言葉をかけたにもかかわらずである。ベートーヴェンの得意や思うべしである。
○…以上の話はベートーヴェンが女友達ベッチーナ・ブレンターノなる女流詩人に送った手紙に出ていて有名な話だが、本人の「自慢話」的な要素も感じられる。世俗的な権威に容易に屈しない彼の反骨精神は、作品の中にも感じられるのはうれしいものである。
                                    (社会文化塾 鎌倉 攻)

ドラクロワとショパン
○…祖国ポーランドを後にしたショパンは1831年パリに着いた。その前年の7月、パリではシャルル10世の失政がたたって「七月革命」が起き、ルイ・フィリップが即位した。ドラクロワはこの七月革命を題材に見聞した資料をもとに『民衆を導く自由の女神』を描き、1831年5月のサロンに出品した(裏表紙を参照)。彼はそれまで政治的な絵を描いたことがなかったが、経験したこともないような好評を得て、政府は3000フランで買い上げ、リュクサンブール美術館(現在の上院)に展示した。続きを読む)

○…ところが「革命の宣言書」のようなこの絵を「いつまでも陳列しているのは穏当でない」という説が出て、数カ月後にはお蔵入りになり、次いでドラクロワのもとに返され、1848年には再び美術館に展示された。1848年は「二月革命」が起きた年で、ルイ・フィリップは英国に亡命している。しかし、絵はまたもやドラクロワに返され、その後数々の経緯を経て、1855年になってようやくナポレオン3世の英断によって世界博覧会で公開され、1874年以後はルーブル美術館で展示されるようになった。革命の本場のようなフランスでも『民衆を導く自由の女神』をにがにがしく思っていた階層がいたことを物語る。日本には1999年2月東京国立博物館で公開されている。
○…さて、ショパンは1836年、リストの愛人ダグー伯夫人のサロンで作家のジョルジュ・サンドと知り合い、ドラクロワも知るようになった。二人の画家と作曲家が親交を深めるようになるのは1842年夏、招待されたサンドの故郷ノアンの館で会ってからだ。「僕は大好きなショパンと鼻つき合わせて際限なく話した。彼はまれに見る高雅な人物だ。僕が出会った中で本当の芸術家というのは彼のことだ」とドラクロワはショパンを絶賛している。ドラクロワが一枚のカンバスに描いたショパンとサンドの絵は、その後引き離されて傑作の『ショパン像』はルーブル美術館に『サンド像』はコペンハーゲンにある。
  参考:「ドラクロワ」(坂崎 坦  朝日選書)
                                   (社会文化塾 関口 實)

マルモッタン美術館の女流画家モリゾは…
○…「芸術の街」パリのもう一つの顔は公園の街。大小さまざまな公園があるが、とりわけ広大なのが、西の近郊、ブローニュの森だ。中の島まで船で渡れる湖、バラ園や遊園地、競馬場やテニスコートもある市民憩いの場。この公園を背景に控えた高級住宅街がパッシー地区だ。その一角に、どう見てもごく普通の、全く目立たない小さなアパルトマン風の建物がひっそりと建っている。看板代わりの大きな旗がぶら下がっていなければ、ここが西欧絵画の歴史を変えた、かの有名な絵がある美術館とは思えない。(続きを読む)

○…歴史家だった収集家の名をとった「マルモッタン美術館」。その絵とは、クロード・モネの『印象、日の出』(1872~73制作)。それまで長く続いた写実的・古典的な絵の風潮をガラリと変えた、荒削りで大胆なタッチ。近代絵画の代名詞にもなった「印象派」の名の由来となった絵だ。そんな歴史の重みを背負うにはあまりにも小ぶり。いま昇ってきたばかりの赤い太陽がゆらゆらと波間に映って揺らめき、手前の数隻の小舟は人を乗せたまま波に身をゆだねている。背景の小さな港は霞(かすみ)がかかって、建物があるらしいがぼんやりしている。光と影が入れ換わりながら揺らめく風景が、古びた額の中に小ぢんまりとおさまっている。
○…マルモッタン美術館には『睡蓮』をはじめとするモネの絵が、息子ミシェルの寄贈によって多い。だが一方で、印象派の代表的な女性画家ベルト・モリゾ(Berthe Morisot 1841~95)の作品を多く所蔵していることで知られる。時代は女性画家が珍しく「印象派は5、6人のおかしな連中によって結成されたが、うち一人は女性だ」と揶揄(やゆ)された。彼らが新しい絵を引っさげて開いた「印象派展」(当初は不評さくさくだった)8回のうち、彼女は7回出展している。manet_morisot00.pdfエドワール・マネ作 『すみれの花束をつけた ベルト・モリゾの肖像』
○…ベルト・モリゾは姉エドマとともに絵を学び、コローやエドワール・マネに師事する。特にマネとは絵のモデルになることも多く、よく知られた『すみれの花束をつけたベルト・モリゾ』などに描かれている。モリゾの絵自体は家族や穏やかな日常風景を描く女性的なものが多く、インパクトがないとしてあまり評価されなかった。姉への手紙で「私の作品は多くの悲しみとトラブルのもとになっている」とこぼしている。『ゆりかご』『読書』『ロリアンの小さな港』などの絵で、その静謐(せいひつ)さや温かみが評価されたのは第2次世界大戦以後だった。
○…モリゾは妻子がいたマネに好意をもっていたようだが、結局はマネの弟ウジェーヌと結婚した。夫婦仲もよく、夫や娘の絵を多く描いた。家族・親戚ともども音楽家や作家などの芸術家と交流があり、娘ジュリーは画家と、めいは詩人ヴァレリーと結婚した。
○…19世紀後半から20世紀初頭にかけてのパリ。わずか50年そこそこの間に、突如竜巻のように巻き起こった芸術の一大変革の時代を人は”ベル・エポック”(La belle époque よき時代)と呼んだ。この時代の”空気”を後世の、しかもエトランゼの我々が確実に吸うのは難しい。しかし、まさに印象派に象徴されるように、美術、音楽、文学が互いに呼応しあったればこそ、世界の潮流を変えたのだろう。

                (社会文化塾 清水まさみ)