column 9 of bunkanokaze

  亡き王女…”ははるかに遠く
○…あの『ボレロ』で管弦楽の魔術師といわれたモーリス・ラヴェル(1875-1937)の小品『亡き王女のためのパヴァーヌ』は、ずっと評価が低かった。同じ旋律の繰り返しで、他の作曲家のような発展性もドラマ性もない…というのだ。ラヴェル自らが「貧弱な形式」と言っているのが響いたのかもしれない。しかし、この曲の奥深さと豊かさは、ラヴェルの青春の心の内をかいま見る意味で、あらためて注目されていい。  (続きを読む)

○…パヴァーヌとは2拍子でゆっくりと踊る宮廷舞曲だが、この『亡き王女…』は出だしから切なく、もの悲しい旋律が繰り返される。作曲手法的には、各フレーズが長調で始まって短調で終わり、しかも前の音を引き延ばすことで、漂うようなゆったりした曲想をかもし出す。いまは亡き王女が優雅に踊り、止まっては振り返り、また踊り出すさまのようだ。この曲のタイトルについて、ラヴェルはInfante(王女)とDéfunte(亡き)の「韻を踏んだだけ」と言う。
521px-Las_Meninas,_by_Diego_Velázquez,_from_Prado_in_Google_Earth.jpgラス・メニーナス○…いったい”亡き王女”とはだれなのだろうか。モデルはいるのだろうか。まずベラスケスの名画「ラス・メニーナス(女官たち)」の中央にいる3歳のマルガリータ王女。スペインから幼くしてフランスにやってきた。眠れる森の美女やシエラザードの物語に出てくる、お姫さまや子供を題材にした小曲が多いラヴェル好みではある。またルイ13世の王妃で、ルーベンスの「王妃アンヌ」に描かれたアンヌ・ドートリシュ。さらに「ハムレット」のオフィーリアという説もある。
○…この曲は”ポリニヤック大公夫人に捧ぐ”とある。この女性(1865-1943)はアメリカの富豪の娘で、30歳年上の大公と結婚した。印象派の画家や才能ある音楽家を発掘し、援助した。ピアノ科を落第し、コンクールに落ちてばかりいた若いころのラヴェルを高く評価し、ラヴェルの恩人だった。一生独身を通したラヴェル。こうした高貴だが満たされない女性に”亡き王女”のイメージを重ねたのではないか。この曲のテンポは、作曲当時ゆっくり演奏すると指定されていたのが、後年ラヴェル自身の演奏ではかなり速くなる。そこには恩人や友人との若き日を懐かしむ、高揚そして哀惜が見てとれるような気がする。
○…ラヴェルは晩年、交通事故で記憶障害に陥る。薄れる記憶の中で『亡き王女…』を聴き「この曲はとても美しい。だれが書いたのだろう」とつぶやいたという。すべてが過去の中に消えて行ったとき、ラヴェルの胸中によぎるものは何だったのだろうか。『亡き王女のためのパヴァーヌ』でラヴェルが指定した主題は…”Très Lointain"〜はるかに遠く〜であった。                
                                (社会文化塾 清水まさみ)

  月の光」のような穏やかさ
○…20年ほど前にベトナムとフランスの合作映画「青いパパイヤの香り」が公開され、当時評判になった。南国ベトナムのゆったりとした空気が伝わってくるようで、アメリカのアクション映画のようなせせこましさがなく、庭に植えられたパパイヤの実がこの映画を象徴していた。映画後半にドビュッシーのピアノ曲『月の光』が2度使われ、女主人公ムイの静かな恋心を暗示していた。(続きを読む)

○…舞台は1951年の南ベトナム時代のサイゴン(現ホーチンミン市)。平和な一家に下働きの使用人として、10歳の少女ムイが雇われる。この家のあるじは何もせず琵琶を弾くだけ。奥さんが家計を支え服地屋を営む。子どもは社会人の長男、中学生の次男、小学生の三男。以前ムイと同年の娘がいたが亡くなった。ほかに祖母と中年の女性使用人がいる。長男の友人で新進作曲家のクエンが時々訪ねてきて、ムイはクエンにほのかな憧れを抱く。ある日あるじは有り金を持って消えてしまい一家は途方に暮れる。後にあるじは家で倒れているのが見つかるが、そのまま息絶える。
○…それから10年がたち、長男に嫁が来てムイは暇を出される。気の毒に思った奥さんは娘のため用意しておいた宝石とドレスを贈る。ムイは幸いクエンの家に雇われる。パリのコンセルバトワール出身のクエンは『月の光』など、よくピアノの練習をする。慎ましいムイは家事をしながら聴いている。クエンは裕福な令嬢と付き合っていたが、いつしか素朴なムイにひかれるようになる。令嬢はクエンがムイに心ひかれていることに気づき「最近は家に来なくなったわね」と不満を言うと、クエンはショパンの『24の前奏曲』の20番を弾いて無言の別れを告げる。それを感じた令嬢は激しく怒り狂う。やがてクエンとムイは結ばれ、ムイはあの宝石とドレスを身に着け、子どもももうけ幸せに暮らす。
○…この映画の舞台サイゴンの場面はパリ郊外にセットを組んで撮影され、1993年監督のトラン・アン・コンはカンヌ国際映画祭で新人監督賞を受賞した。俳優はほとんど素人ばかりで、そのせいか台詞(せりふ)が少なく、それがまた古いベトナムの緩やかな雰囲気を淡々と伝えるのに効果的だった。『月の光』は『ベルガマスク組曲』の3番目の曲で、ベルガマスクとは北イタリアのベルガモ地方の舞曲。ドビュッシーは若い時にイタリアに2年間留学している。だがこの場合の「月の光」は象徴派の詩人ヴェルレーヌの同名の詩にちなんで作られたといわれる。中の一行に「そこではお洒落〈しゃれ〉な仮面とベルガモ風の衣装が行き交い」(藤井宏往訳)とある。映画は台詞が少ない分、『月の光』と『24の前奏曲』が登場人物の気持ちをうまく代弁しているようだった。           
                                 (社会文化塾 関口 實)

  ブランドの栄枯盛衰
◯…1789年のフランス革命によってそれまで貴族だけのものだったピアノは、産業革命で裕福になったブルジョワジーにも持つ人が増えていった。大きなグランドピアノを求める人も出てきた。コンサートも室内のサロンからホールや劇場にその場を移していく。ピアノは広い会場にふさわしい大きな音量が求められるようになるし、作曲家からの要望もあった。チェンバロから始まったピアノはこの時期急速に進化していった。バッハ、モーツァルト時代は61鍵だったものが、ベートーヴェン時代は68~78鍵、そして現在は88鍵と鍵盤の数も増えていった。ピアノ製作者たちもよく研究し要求にこたえた。(続きを読む)

◯…作曲家で演奏家でもあったフレデリック・ショパンがパリのホール「サル・プレイエル」で、プレイエル製の78鍵ピアノを弾いたことは知られている。ショパンがマジョルカ島にジョルジュ・サンドといた時も、わざわざパリからプレイエルのピアノを取り寄せている。フランスにはほかにも優れたピアノ製作者が活躍していた。セバスチァン・エラール(1752-1831)と弟子でおいのピエール・エラール(1796-1855)だ。セバスチアンはフランス東部のストラスブールに生まれ、パリに出て家具職人を経験した後、チェンバロ製造の職人となった。その後、弟と一緒に会社を設立、1777年ピアノを製作した。これが好評を博したのだが、技術が高すぎたがために、かえって職人組合(ギルド)に嫌われ対立した。フランス革命が次第に先鋭化した1793年、セバスチァンはロンドンに逃れた。おいのピエールは成長とともに伯父の後を継ぎ、徹底的にピアノの製作技術を学び、1821年音響効果を高める新技術を完成させた。それから10年後の1831年セバスチァンは亡くなったが、ピアノの製作、機能の開発はピエールが発展させた。
◯…エラール製ピアノを愛用したのはフランツ・リストで、1824年6月29日ロンドン王立劇場ではピエールが開発した新機能を備えたピアノを弾いて大成功を収めた。エラールのピアノは演奏と作曲の可能性を広げ、大きな役割を果たした。リストはその後もエラール製ピアノを愛用した。
◯…そのエラール社は今はない。プレイエル社も一時プレイエル・ガボウ社となってドイツ系資本の傘下になった後、第二次大戦後復活する。フランス政府が自国にピアノ製造会社がないのは国の体面にかかわると、国の肝いりで会社を立ち上げ、ようやく1996年にプレイエル社となった。しかし、エラールのブランドはなくなったままだ。
                                 (社会文化塾  中川 清)

  「坂の上の雲」を目指した時代
◯…19世紀から20世紀にかけての世紀転換期の約30年間、ヨーロッパの音楽史はその既成概念を覆された時代と言われる。1883年ワグナー没、1900年パリ万博、1904年日露戦争、1914年第1次世界大戦と重なる時代だ。すでに改革の時代を迎えたと言われるヨーロッパ音楽界に対して、日本は西洋音楽との出合いが始まった時代で、比較をする段階にもない時期と言える。すべての分野の日本人が坂の上の雲を目指して活動した時代だった。(続きを読む)

◯…「坂の上の雲」(司馬遼太郎著)に登場する人物の中で、万人に最も敬愛され、武人の誉れたかく最期を遂げた人物は広瀬武夫中佐だろう。彼の最期は「杉野はいずこ、杉野はいずや」の文部省唱歌の一節で有名だが、「坂の上の雲」の歌詞と重なる個所は臨場感にあふれている。「飛びくる弾丸(たま)にたちまち失(う)せて」は「そのとき広瀬が消えた、巨砲の砲弾がとびぬけたとき、広瀬ごともって行ってしまったらしい」とある。この一節に惹(ひ)かれるのは、杉野兵曹長の救出に殉じた広瀬武夫の人間愛が、歌う人、聞く人に伝わってくるからだ。
◯…広瀬武夫は豊後竹田の生まれだ。この地は、『荒城の月』を作曲した滝廉太郎が少年時代を過ごしたところでもある。武夫と廉太郎はのちにドイツのライプチヒで一度会っている。1901年(明治34年)ライプチヒ音楽学校に合格した廉太郎を、当時ペテルブルグの大使館付武官だった武夫が同郷のよしみで訪ねている。お互いの家が近かったことからふるさと竹田を懐かしく語り合ったことだろう。この時、こんな歌を作曲しましたと言って廉太郎から武夫に渡された楽譜が『荒城の月』で、武夫はそれをペテルブルグに持ち帰ったという。
◯…NHK「坂の上の雲」の第6回「日英同盟」の中で広瀬武夫中佐がロシアから帰国する時に友人・滝廉太郎の曲だと言って、ロシア人の恋人アリアズナにピアノを弾かせたのが『荒城の月』だ。これはこのワンシーンのためにオリジナル曲をアレンジしたようだ。これを聴いたロシア人は日本人作曲家の作品と知り、驚いたという。物悲しく、メランコリックで終末感のただようこの曲は「昔の光いまいずこ」とまさに帝政ロシアの行く末を物語っているようだ。司馬遼太郎は廃藩置県への鎮魂歌ではないかと書いている。
◯…『荒城の月』はその後山田耕筰が編曲し、それが一般的になっている。それに対してNHKバージョンは滝廉太郎の原曲通りに弾いていた。明治の西洋音楽における代表的な音楽家の一人として23歳で逝った滝廉太郎、武人として36歳で戦死した広瀬武夫、両人のライプチヒでの出会いは明治の時代ならではと思わせる一編のドラマだ。
    参考:「坂の上の雲」(司馬遼太郎 文藝春秋社)、「明治という国家」(司馬遼太郎 日本放送協会)
                        (社会文化塾 伊藤 泰雄)

 「ジュ・トゥ・ヴ」はだれのこと?
◯…エリック・サティ(1866-1925)の「ジュ・トゥ・ヴ」は日本329px-Suzanne_Valadon_-_Portrait_d'Erik_Satie.jpgヴァンドラが描いたサティ語に訳せば「お前が欲しい」という意味になる。「あなたが欲しい」より相手はずっと緊密な関係にある。サティは生涯独身と言われるが、パリのモンマルトルで生活していた若い20代にはもちろん恋人がいた。その人はシュザンヌ・ヴァラドン。モーリス・ユトリロのお母さんとして有名だ。1892年のころのことでサティ26歳、ヴァラドン27歳でユトリロは9歳だった。ヴァラドンはシャヴァンヌ、ルノワール、ロートレック、ドガらのモデルを務め、自身も絵を描いた。サティは当時ミュージックホール「黒猫」でピアノを弾き、恋しいヴァラドンにはなんと300通もの手紙を書いた。しかし、結局ヴァラドンは去ってしまった。皮肉屋で孤独癖があり、ときにかんしゃくを起こすサティに愛想を尽かしたか、ヴァラドンが新しい恋人を見つけたか、二人の間はとにかく半年しか持たなかった。サティは気難しく近寄り難かったと言われるが、多くの画家が彼の肖像画を残している。その中にはヴァラドンが描いた肖像画もある。有名な写真家の肖像写真もある。ということは交友範囲がかなり広く、気さくに描いてもらっていたとも思われる。(続きを読む)

◯…その後1898年、サティはパリの南約2キロのアルクイユに移る。ここはモンマルトルとは全く違い、当時は牧歌的な田園地帯だった。石造りの巨大なローマ時代の水道橋が今に残る。それからしばらくしてサティはシャンソンに手を染め、シャンソン歌手ポーレット・ダルティのために何曲か作っている。その1曲が「お前が欲しい」である。ピアニストでサティ大好きの島田璃里さんによると、パリに住む知人のシャンソン歌手が彼女に手紙を寄せ、当時の事情通が「サティはポーレットと結婚したいと思っていたいたはずだ」と話していたと書いてきた。ポーレット自身はその後エドワード・ドレフェスという人と結婚するが、サティはその恋敵の家にも頻繁に食事などに呼ばれて行っていた。手紙の主は「かなり複雑な気持ちでポーレットに会いたかったからだと思う」と結んでいる。「ジュ・トゥ・ヴ」の作られた時期から言って「お前」とはポーレットのようでもあるし、手紙を300通も描いたヴァラドンのようでもある。
◯…1925年7月1日サティはパリの病院で肝硬変で死去する。59歳だった。2日後ジャン・コクトー、ジョルジュ・オーリック、ダリウス・ミヨーらが参列してアルクイユの墓地に葬られた。
  参考:「サティ弾きの休日」(島田璃里 時事通信社)
                          (社会文化塾 関口 實)

  幸運の芸術家、フォーレ
○…ドイツの後期ロマン派の活躍がやや下火になった頃、花のパリで華々しい活躍をしたのがサン=サーンスやフォーレたちであった。中でもフォーレは父親が中学校の教師でそれほど裕福ではなかったが、両親の懸命の努力でパリのニデルメイエール音楽学校に授業料免除の寄宿生として入学することができた。その上、サン=サーンスという恩師に目を掛けられたことで、機会あるごとにその恩恵を受けることになる。これに対しドビュッシーは後年サン=サーンスに嫌われて、パリ音楽院の教授職に就けなかったといわれている。(続きを読む)

○…フォーレは二デルメイエール校を20歳で卒業してすぐに教会のオルガニストの仕事に就くことができた。その後30年間もその職にあって安定した生活を送ることができた。音楽家として自らの芸術に専念できたのはまさに幸運であった。1896年51歳の時、これまで希望していても反対する人がいてなれなかったパリ国立音楽院の教授職に突如就任することになった。それは教授だった3年先輩のマスネが、院長立候補に際し終身院長の座を要求し、文部省がこれを拒否した結果、マスネが教授を辞職する事件があったからである。その後任にフォーレが選ばれた。
○…1905年まじめな性格の彼は院長になった。学校の近代化や能力主義に基づく若手の指導者の登用などを積極的に進めた。音楽の印象派といわれたドビュッシーやラヴェルらはフォーレが育てたといわれている。フォーレは終生サロンに出入りするのをいとわなかったが、その結果たばこはヘビー級であり酒も飲んだ。それでも幸運の芸術家らしく79 歳の長寿を保ち、立派な作品を多数残すことができた。
    参考:「大作曲家たちの履歴書 下」(三枝成彰 中公文庫)
                            (社会文化塾 鎌倉 攻)