column 8 of bunkanokaze

  引き継がれるもの
○…1853年秋、デュッセルドルフ郊外、林の中のシューマン夫妻宅の門口に地味な夏物のジャケットを着た若者が立った。長い金髪に引き締まった口元、深みのある青い目をした彼は、甲高い声で案内を請うた。招き入れられて自作の「ピアノソナタ第1番」を弾く。感心したシューマン (43)が妻クララ(34)を呼んだ。クララは日記に書いた。「素晴らしい幸運。神から遣わされた天才を見た…」。無名のブラームス(20)が歴史に名を残すきっかけとなる瞬間だった。(続きを読む)

○…シューマンは自ら創刊した「音楽新報」に「このような人物が現れるだろうと思っていた」とブラームスを称賛する記事を書く。驚いたブラームスはこれからシューマンを師と仰ぐことになる。だがその半年後、精神を病んだシューマンはライン川に飛び込み、死ぬまで入院生活を送る。それでもブラームスは終生シューマン一家に尽くし、聡明(そうめい)なクララには感謝とともに淡い恋心も…。
○…後年、奨学金の審査員をしていたブラームスは、ドボルザークという名を見つける。その作品「モラヴィア二重唱曲集」にいたく感心し、「彼はとても才能がある。だがとても貧しい」と推薦した。ドボルザークは生涯ブラームスを師と仰ぎ、名曲「スラブ舞曲集」の中では各小節の最低音をつなげてブラームスの交響曲第4番第4楽章をなぞる、というオマージュ(敬意)を試みたりしている。
○…バッハはベートーヴェンから目標にされた。ベートーヴェンに対してはブラームスがその後継者を意識するとともに、シューマンに師事した。そしてブラームスのあとにはドボルザークがいる。大作曲家の系譜には、こうして受け継がれていくものがある。
 参考:西原稔著「ブラームス」(音楽之友社)ほか    
                            (社会文化塾 清水まさみ)

  ジプシー音楽のルーツ
○…「ジプシー」と聞いて、皆さんはどんなイメージを持つだろうか。ビゼーの「カルメン」、シューマンの「流浪の民」、ヴェルディの「イル・トロヴァトーレ」、サラサーテの「チゴイネルワイゼン」など、ロマン派以降、ジプシー音楽やジプシー生活をテーマにした名曲が数多く作曲されている。どことなく哀愁を帯びたエキゾチックなメロディーと激しいリズムは大変人気があり、ブラームス、リストにも大きな影響を与えた。(続きを読む)

○…ジプシーとは、インドの北西部を起源とする少数民族で、さまざまな迫害から逃れ、中東、トルコからバルカン半島を抜けて14~15世紀あたりにヨーロッパにやってきた。「ジプシー」という名称は当時のヨーロッパ人が彼らがエジプトから来たと勘違いし「エジプシァン(エジプト人)」と呼んだのが始まりである。彼らは自分たちを「ロマ(ロマニー)族」と称しているが、これは「人間」という意味だとか。
○…彼らは一カ所に定住せず旅を続けながら、馬商人、金属加工、大道芸、占い、場合によっては盗み(!)などで生活の糧を得ていた。言葉はあるが文字を持たなかった流浪の人々は、歌や踊りによって民族の歴史を後世に伝えてきた。長い旅の記憶がジプシー音楽の多面性となっている。スペインでは音楽と踊りが融合してフラメンコを生み出した。ヴァイオリンの名器「ストラディバリウス」は、イタリア人のストラディバリが、娘との結婚と引き換えにジプシーに伝わるヴァイオリン製法を聞き出して作られたと言われている。
○…現在ジプシーは世界に1200万人、中には今でも旅を続ける人々もいるが、多くはスペイン、フランス、イタリア、東欧などに国籍を持ち定住している。「カルメン」の生き方があまりにも鮮烈な印象を残したためか、ジプシー=恋多き浮気者というイメージが定着してしまったようだが、実際のジプシーは身持ちが固く貞淑で、家族を大切にする人たちだそうだ。
  参考:ジュール・ブロック著  木内信教訳「ジプシー」(白水社)ほか
                                  (社会文化塾 宗 いづみ)

  小説と映画のブラームス
○…「悲しみよ こんにちは」などの小説で有名なフランスの小説家フランソワーズ・サガン(1935-2004)は、1959年「ブラームスはお好き」(AIMEZ-VOUS BRAHMS…)を発表した。サガンが23か24歳のころの小説。主人公は夫との安楽な生活を捨て、商品のウィンドーの飾り付けを専門に手掛ける39歳の女性ポール。自分より少し年上の恋人ロジェがいるが浮気っぽい。交際も長く、そろそろお互いに飽きがきている。そんな時に仕事先の資産家女性の息子シモンが彼女に熱を上げる。美青年のシモンは15歳も年下なのだが、その愛は真剣で年齢差を問題にせずにポールに結婚を申し込んだ。ポールはひとり悩んだ。もはやロジェを恋してはいないものの何となく離れることができない。ロジェもよりを戻そうとしていた。ポールはシモンに別れを告げることにした。目に涙をいっぱいためてシモンは階段を駆け下りていった。それを追うようにポールは叫んだ。「シモン、もう、私、おばあさんなの」(続きを読む)

51Gxxi10tCL._SL160_.jpg映画「さよならをもう一度」
○…サガンの小説を多く翻訳している朝吹登水子さんは「サガンの本の持つ雰囲気に私はこれほど強く打たれたことはなかった」と評している。心理描写がうまい伝統的なフランス小説の一つと言えるだろう。小説の題名はシモンがポールをコンサートに誘う手紙の一行からとられている。プレイエル・ホールで演奏されるそのブラームスの曲は協奏曲だが、曲名は具体的に書いていない。コンサートはラジオ中継され、それをロジェが車の中で浮気の相手と聴くという設定になっている。
○…1961年この小説はアメリカで‘Goodbye Again’と題され映画化された(邦題は「さようならをもう一度」)。監督はフランスでも映画を撮ったことがあるアナトール・リトバーク。ポール役(ポーラ)はイングリッド・バーグマン、ロジェをイヴ・モンタン、シモンをアンソニー・パーキンスが演じそれぞれ適役だった。音楽は六人組と言われたジョルジュ・オーリック。ほぼ原作に忠実に映像化されているが、肝心のブラームスの曲は協奏曲ではなく、交響曲第3番第3楽章の冒頭の有名なテーマから取られている。映画全編にこのテーマが流れ、途中で女性歌手が歌詞を付けて歌う場面もある。サガンは何の協奏曲を考えていたのかナゾのままだが、作中に出てくる楽器は唯一バイオリンのみ。これだけではバイオリン協奏曲と判断できず、これはそのままそっとしておいた方がよさそうである。       
                                   (社会文化塾 関口 實) 

  レストラン「赤いハリネズミ」
○…20歳の若さでロベルト・シューマンから「天才」の太鼓判を押されて世に出たヨハネス・ブラームスは、特定の支援者を持たず財産や社会的地位を持たなかったが、その才能のみで着実に音楽家としての地位を確立していった。(続きを読む)

○…40歳でバイエルン王マクシミリアンより功労勲章、46歳でブレスラウ大学より名誉哲学博士の称号を贈られ、53歳でウィーン音楽家連盟の終身名誉会員に、54歳でプロイセンより国家功労勲章、56歳で当時としては貴重なハンブルク名誉市民権、62歳でオーストリア皇帝より「芸術と科学における功績者」として金メダルを授与されるなど、それ相応の地位と名誉と財力を得ていた。しかし、ブラームスの日常生活は自由に旅行したり、気ままに転居をしたりと普段と変わらず、また身寄りの人だけでなく他人にも相当の経済援助を惜しまなかった。貯金や金もうけに興味を示さず、自分自身の身を飾ることにも無頓着で交際も限られた親しい友人の範囲を超えなかった。
○…ブラームスの1日は朝5時に起き、一人または親しい友人と郊外を散策し音楽について語ることから始まる。朝食は行きつけのレストラン「赤いハリネズミ」の階下の安酒場で軽食を取った。2階は高級料理の食堂で彼はめったに使わなかった。家に帰るとモカコーヒーを自分で入れた(尊敬するベートーヴェンもこの習慣があった)。それから強い葉巻で一服し、音楽の仕事に取り掛かるのを常とした。
○…ブラームスは時として貴族や金持ちの後援者から晩さん会の招待を受けることもあったが、いつも断ったことはなく、宴会ではよく食べよく飲んで接待をした奥様方を大いに喜ばせたという。ブラームスの飲酒歴は13歳のとき安酒場でピアノ演奏のアルバイトをしたときに始まる。彼の死因は父親のヨハンと同じ肝臓がん。1896年2月20日にある貴族から宴会に招待され、ごちそうになったメニューがその奥方が残した日記から知ることができるので紹介しよう。
・(牛の)脳のコンソメスープ  ・伊勢エビのサラダ  ・野菜付き牛ヒレ  ・ハムのマディラ島産
 ワイン煮  ・ヤマウズラ  ・アイスクリーム  ・パン  ・シャンパン 後 コーヒー

                                 (社会文化塾 鎌倉 攻)

  僧籍に入ったリストの思い
○…リストは1866年に僧籍(下級聖職位)に入っている。それ以降常に黒い僧衣で姿を現していたと言われる。敬虔(けいけん)なカトリック教徒とはいえこのような心境に至った経緯は何か。若き日、その演奏ぶりで貴婦人たちを熱狂させ、ときには失神までさせた華やかさは少しずつ影をひそめた。次第に宗教と哲学の中に静かに自分を見出していったように見受けられるが、その頃の彼に何があったのだろうか。(続きを讀む)

○…リストとカトリックとの出会いは多々ある。父親も18歳の時にフランチェスコ派修道院に修練者として入っており、その後リストを伴い何度も修道院を訪問している。当然リストの人格形成に影響したと思われる。1847年にキエフで会ったカロリーネ・フォン・ザイン=ヴィトゲンシュタイン公爵夫人との恋は、教会法の中で正式な結婚を希望したが、ついに認められなかった。信仰と罪の意識の中で苦闘した二人はどのような心境にあったのか、もはや確かめようもない。
○…ローマに移住し、1866年ホーヘンローエ大司教から4階級僧職を受けてリストが聖職者としての道を歩み始めたのは、一時的な感情によるものではなかった。リスト自身がカトリックの宗教音楽の改革を推し進めていこうとした意図があったからこそ、ヴァチカンに腰を据えたのだろう。下級僧の一人として日を送るつもりなどさらさらなかったに違いない。カトリック信仰に基づくオラトリオ「キリスト」、「ハンガリー戴冠ミサ曲」などの大曲や多くの小品-その作風は多岐にわたるが、これらの作曲はリストの創作活動において大きな比重を占めている。
○…1853年に出版した「詩的にして宗教的な調べ」第7曲の「葬送」には二つの意味がある。この曲の標題の下には副題のように「1849年10月」と書き添えられている。ちょうどハンガリー革命に対するオーストリアの過酷な報復によって、リストの友人を含む多くの勇士たちが命を落とした時期にあたる。そして、友人だったショパンが亡くなったのも同じ1849年10月だ。曲の後半の戦場を思わせる勇壮な調べの中に、ショパンの「英雄」ポロネーズに似た動きが現れる。雄々しく戦い散っていった勇士たちを悼むのにふさわしく、男性的で劇的な葬送曲だ。
○…信仰心はリストの人格の一面を物語ってはいるが、それを分析するのは難しい。彼が行き着いた僧職の世界はミサ曲を書くための方便だったのか、ショパンを思う弔意の表れか、あるいは愛の苦悩の終着駅なのか。筆者としては故国ハンガリーのために逝った勇士への追悼と思いたい。
 参考:ギイ・プールタレス著、野村千枝訳「愛の人フランツ・リスト」(音楽の友社)ほか
                                       (社会文化塾 伊藤 泰雄)

  ピアノの進化と作曲
○…イタリアのチェンバロ製作者クリストフォリ(1655-1731)は1709年、鍵(キー)によって小金属片が弦をたたくクラヴィコードの構造をチェンバロに応用し、音の強弱をかなり自由に出せる楽器に仕上げた。これがピアノの始まりとされる「クラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ」と名付けられた楽器の誕生だ。長い名前は略称「ピアノ・フォルテ」となり、さらに略され「ピアノ」となった。この楽器はドイツ、オーストリア、イギリス、フランスの楽器界に強い影響を与え、各社で改良が加えられた。時代は産業革命の最中、18世紀から19世紀にかけて現在の打弦構造に近いものになった。さらにピアノの内部のフレームに鉄が採用されると、音域が広がり、音色と音響が大ホールに響きわたるようになって「楽器の王様」と言われるまでになった。楽器の性能が変われば、作曲者は新しい表現に挑戦した作品が増える。貴族社会から市民社会に支配層が変わり、音楽も教会の支配が緩み、華やかな社交界が音楽家の活躍の場所となる。(続きを讀む)

○…ピアノの変遷とベートーヴェン(1770-1827)の生涯は時代が重なる。ベートーヴェンは17歳からピアノはシュタイン、ヴァルター、エラール、シュトライヒャール、ブロードウッド、グラーフ、ベーゼンドルファーなど次々に替え、その数10種を超える。作曲も当然新しいピアノの出現で演奏可能の幅が広くなり、新しい音域の作品を作るようになる。音色も弦をたたくハンマーを動物の革からフエルトにしたりして大きく変わった。いろいろ変遷があったが、一番大きな影響を与えたのは、ベートーヴェンがなくなるころ、イギリスの楽器製造者ブロードウッドがピアノの内部の構造を木材から鉄に変えたことだろう。しかし、残念ながらベートーヴェンはこの新しい響きのいいピアノには触れられなかった。
○…リスト(1811-1886)は激しいピアノ演奏のためによくピアノを故障させると言われるが、ベーゼンドルファーだけは演奏後も狂いがなく「わたしの期待する理想に達している」と礼状を書いたほどだ。ピアノの王者はスタンウエイかベーゼンドルファーか言われた時代もあったが、生産量では日本のヤマハが1位、カワイが2位を占める。そのベーゼンドルファーも昨年ヤマハの傘下に入ったと聞く。  
                            (社会文化塾  中川 清)