column 7 of bunkanokaze

  ショパンとプレイエル製のピアノ
○…帝政ロシアの支配国に対する統治は、市民には過酷なものだった。日露戦争の最前線に送られた「ロシア兵」は実はほとんどがポーランド兵で多大の犠牲を強いられたという。ポーランドでは1830年、独立を目指し各地で反乱が起きた。帝政ロシアの圧政下、ワルシャワは重苦しく暗い空気に包まれた。ショパンは後ろ髪を引かれる思いで祖国を後にした。その一方でパリでは美しく明るい音楽を「オペラを歌うような」ピアノ演奏を聴いてもらいたいとも思った。(続きを読む)

○…1831年、21歳のショパンはパリに着いた。幸運にも当時有名だったピアニストで作曲家のカルクブレンナーの演奏をすぐ聴くことができた。カルクブレンナーは楽譜出版と楽器会社の役員でもあった。これが機縁でプレイエル製のピアノと出会うことになる。二代目社長のカミーユ・プレイエルと同社役員のカルクブレンナーは若いショパンの才能を見抜き、後援を惜しまなかった。楽器のショールームであり演奏会も開催できるサロン「サル・プレイエル」は裕福な市民の社交場でもあった。
○…ショパンの研究家シルヴァン・ギニャール大阪学院大教授は「彼はエラール製のピアノもブロードウッド製のピアノも嫌いではなかったが、何といってもプレイエルだった」と言っている。ショパンは「気分のすぐれない時はエラールを弾きます。これだとすぐに完成された音が出せますからね。でも元気が良くて自分だけの音を出してみたい時は、プレイエルが必要なのです」と語ったという。
○…昨年、浜松市楽器博物館は「絹のような凛(りん)とした美しい音色のプレイエルを堪能してほしい」と室内楽編成でコンサートを開催し、ショパンのピアノ協奏曲第1番を演奏した。また、新百合ケ丘の昭和音楽大学にはショパンと同じ時代の1819年製のプレイエルが所蔵されている。
  参考:「ピアノはいつピアノになったか」(大阪大出版会 伊東信宏編)
                                   (社会文化塾 中川 清)

  この初恋があの名曲を生んだ
○…教会の礼拝堂で後ろの席から視線を感じたショパンは、振り向いた先にコンスタンツィアがいるのを見て、胸が高鳴った。2人はワルシャワ高等音楽学校で一緒だが、話をしたことはなかった。だが彼女はショパンの中で急速に大きな存在になってきていた。声楽専攻の彼女と同じ教室で学ぶことはなかったが、学校で彼女を見かけるたびに、ショパンの視線もチラチラと彼女を追っていた。その彼女に瞬間的にも見つめられたことは、19歳のショパンの胸をときめかせるには十分だった。(続きを読む)

○…人形のような顔立ちのコンスタンツィアは、よく笑う明るい感じの少女だ。ワルシャワの青年たちや駐留しているロシア人将校と出歩いたりしている。ショパンにすれば近寄りがたいところもあったが、それだけにあこがれに似た思いが募った。生来内気なショパンは思いを伝えられず、半年後に親友のティトスに打ち明ける。
  「僕にとって不幸なことかもしれないが、あこがれの人を見つけてしまった」(1829.10)
○…ショパンはこの頃、すでにウィーンへ行くことを決めていた。別れはすぐに来る。愛する人も振り切らなければならない。天才肌のショパンは恋が成就しないところで仕事をするのが芸術家の宿命だと思った。ティトスに語った「不幸なこと」とはそうした行く末を予感したからかもしれない。
 「僕は夢見ている。その思いでコンチェルトのアダージョを書いた」
○…それから1年、二人の仲はなかなか深まらなかった。ついにショパンの祖国への告別演奏会の日がやってきた。ショパンはできたばかりのピアノ協奏曲ホ短調(第1番)を弾いた。彼の頼みでコンスタンツィアもアリアを歌った。白いドレスの彼女は姿も歌も美しく、満員の聴衆はアンコールを叫んだ。
○…コンスタンツィアは別れの詩を書いた。彼女が胸が張り裂ける思いだったのを、ショパンは知っていただろうか。
 「悲しい運命。あなたが決めたこと。仕方がないから受け入れましょう。忘れないで。忘れないで。 
  ポーランドにはあなたを愛する人がいることを…」

  参考:小坂裕子『ショパン』(音楽之友社) 遠山一行『ショパン』(新潮文庫)ほか
                          (社会文化塾  清水まさみ)

  疑問の館
◯… NHKラジオ第1に「疑問の館」という番組がある。これは日常生活の素朴な疑問から文学、歴史などについて、クイズを通して紹介する娯楽情報番組。ここで6月ショパンの魅力を語ったのが、3年前に第1回の文化の風コンサート「モーツァルト」にピアノ演奏とトークで出演した本田聖嗣さん。優雅な演奏と「立て板に水」のトークを覚えておられる方もいるのではないかと思う。その番組でのクイズの幾つかを紹介すると・・・

◯…ショパンの身長は170センチくらい、では体重はどのくらいだったのでしょう? これはショパンの音楽を語る上で重要な要素で、答えは50キロは無かった。脆弱(ぜいじゃく)な身体であるからこそ、「脱力系」の斬新な音楽を生み出しているといわれる。
◯…ショパンは生涯230曲作曲しているが、これを全曲続けて演奏すると、何日くらいかかるのでしょうか? 答えは意外と短く22時間ちょっと。平均すると1曲5〜6分で、これは当時流行のサロンでの演奏に合わせた短い曲が多いため。
◯…ちなみに最も短い曲は、前奏曲の第7番イ長調で50秒足らず。この曲は某胃腸薬のコマーシャルで使用されたもので、聞けばすぐに分かる。なお「イ長」と「胃腸」をかけて、この曲が選ばれた。
◯…本田さんは現在、神奈川テレビ(KTV)「佐藤しのぶ 出逢いのハーモニー」で、毎週月曜日午後9時に出演している。
                                 (社会文化塾 佐々木邁)

  映画の題名から「別れの曲」
○…ショパンを扱った映画は意外に少ない。終戦の年アメリカでチャールス・ヴィダー監督の「楽聖ショパン」が製作され、戦後日本でも公開された。(続きを読む)

ショパンにはコーネル・ワイルド、ジョルジュ・サンドにはマール・オベロンが扮したが、あまり評判にならなかった。日本で公開された映画では戦前の昭和10年(1935年)夏、帝国劇場で公開されたフランス映画「別れの曲」(ゲツァ・フォン・ボルヴァリー監督)の評価が高かった(同年のキネマ旬報で第8位)。原名は「ラ・シャンソン・ド・ラデュー」(別れの歌)だが、輸入元の東和商事が「別れの曲」としたところ、これが練習曲作品10-3の通称になってしまった。ほかにも映画の題名が日本で通称になってしまった例がある。原名は「7月14日」(革命記念日)と味も素っ気もないが、これを「巴里祭」(ルネ・クレール監督)として公開した。当時の映画輸入会社の命名センスのよさが今に生きている。
○…先ごろドイツ版の「別れの曲」が公開された。これはフランス映画と監督、脚本は同じだが、俳優だけを入れ替えた。当時の欧州映画はこうした仕方で同時に何カ国版も作り、あたかもその国で製作したようにして公開した。今だったら声の吹き替えで済んでしまうところだ。当然ストーリーはまったく同じで、内容はショパンの初期に絞っている。
○…1830年ポーランドは大国ロシアの支配に苦しみ、青年たちはひそかに独立への動きを強めていた。ショパン(仏ジャン・セルヴェ、独ヴォルフガンク・リーベンアイナー)はピアノを捨て仲間と共に革命に参加しようとしていた。しかし、才能を惜しむ恩師の勧めで仲間と別れ、初恋のコンスタンツィア(仏ジャニーヌ・クリスパン、独ハンナ・ヴァーグ)とは再会を約し、パリへ出発した。パリの演奏会でモーツアルトを演奏中、青年たちが決起したことを知り、自作の「革命」(練習曲)を弾き、聴衆は沸いた。その中に男装の女流作家ジョルジュ・サンド(仏リュシェエンヌ・マルシャン、独シビル・シュミッツ)がショパンを見詰めていた。これを契機にしてショパンとサンドの仲は次第に深まって行く。その後ポーランドからはるばるコンスタンツィアが訪ねて来るのだが、ショパンの心を思い、一人故国へ帰って行く。
○…実際とはだいぶ違う筋書きだが、フランス映画公開当時、その数カ月前に公開された「未完成交響楽」とともに話題になった。当時日本は次第に右傾化していった時代だった。セルヴェの興奮してピアノを弾く場面や、公園でショパンの曲に合わせたバレリーナの舞い、マルシャンの美しく格好いい男装姿などが、わずかに文化の香りを残した。

(社会文化塾 関口 實) 

  ショパンとサンドのパリでの優雅な生活
○…1839年ハネムーンを過ごしたマヨルカ島での生活を3カ月で切り上げ、サンドの故郷、パリ南方のノアンに帰り着いたショパンは、ノアンの田舎暮らしの単調さが耐えられなくなって10月、1年ぶりに二人でパリに戻ることになった。(続きを読む)

ショパンの住まいはサンドの住まいと約1キロ離れていて、一人暮らしを選んでいる。社交界生活やサロン演奏会での活動が忙しく、その方が便利だと思ったのだろう。サンドとの家庭生活も従来通り継続しており、健康も平穏を維持していた。サンドの住まいも多くの友人が集まるサロン風の立派な住居だった。高名な文豪バルザック(不動産鑑定士の資格も持っていた)が、サンドの住居を訪問して、室内の模様を克明に書き記し、ポーランド貴族の愛人ハンスカ夫人に送った手紙が残っている。

○…フランスの作家アンドレ・モーロワはこの手紙を「ジョルジュ・サンドの生涯」に引用して次のように書いている。「ジョルジュ・サンドはピガール街16番地に住んでいます。食堂には彫刻したカシの木の家具が入っているし、彼女の小さな部屋はクリーム・コーヒー色で、客間には花を盛った立派な中国の花瓶でいっぱいです。いつでも花が咲いている植木箱が置かれています。家具は緑色で、食器棚は骨董(こっとう)が並び、ドラクロワの絵とカラマッタの描いたサンドの肖像画がかかっています。…ピアノは素晴らしいもので、がっちりとしたたて型で紫檀(したん)製です。それをショパンはいつも弾いているのですが、サンドはたばこばかり吸ってほかのことはしません。やっと午后4時に起きるのですが、4時にはショパンはピアノの教授を済ませています。彼女の家では真っすぐで急な水車小屋式と言われている階段を上ります。彼女の寝室は茶色で、ベッドはマットを二つ重ねたトルコ風です。まるで”伯爵(はくしゃく)夫人”です」
○…バルザックの描く豪華なサンドの食堂で、疲れたショパンがサンド自慢の郷土料理の牛乳入り小麦がゆ「フロマンテ」をすすっているのを想像すると、二人が共に過ごした9年間は深い愛情に包まれた実り多い生活だったと思われるのである。

 (社会文化塾 鎌倉 攻)

  ショパン時代の楽譜用紙
○…今回のコンサート企画会議でこの時代の楽譜用紙はどんな紙だったのかが話題になった。ショパンが活躍した19世紀前半、ヨーロッパで使われていた用紙にはウォーターマーク(透かし模様)と呼ばれる他の文化圏にはない一種の商標が入っていた。紀元前2世紀ごろに中国の漢時代に発明された紙が、紀元105年に蔡倫により改良され、さらに唐がサラセン帝国に大敗したタラスの戦い(751年)を経て、製紙技術は回教文化圏から欧州へと伝えられた。(続きを読む)

○…その後、1282年イタリアのファブリアノ製紙工場がウォーターマークを発明、以後6世紀の長きにわたり歴史を持ち続けた。これは商標としての意味が強かった。ウォーターマークを厳密に見極めるのは容易ではないという。β線技術による撮影は可能だが、図書館等の協力が得にくく目視の分析が主体となった。特に楽譜は音符の頭や符桁のように黒く塗りつぶされた部分が多く、目視で模様を見極めるのは格段に難しくなる。
○…楽譜の分析というと用紙の原料やインキの化学分析が考えられるが、実際は数例を除いてほとんど例がない。インキの種類判別により楽譜の成立年代を絞り込むことができるとはいえ、貴重な資料の一部切り取りなどを保管機関が了解するはずがなかった。もちろんインキの赤外線反射グラフ法など非破壊試験の分析も研究されており、近い将来このような方法を使って新たな事実が解明される可能性がある。
○…ショパンの自筆楽譜で現存するもので有名なものに、ワルシャワ国立博物館所蔵のピアノ協奏曲第2番へ短調(作品21)がある。用紙には独特の透かし模様が入っており、ショパン自筆の多数の訂正、運指法やペダル用法の書き込みも数多く、作曲の過程を生き生きと伝えている。1937年(昭和12年)ポーランド政府がドイツの出版社から買い取り、ワルシャワ国立博物館に収蔵したが、2年後ナチスの侵攻の危機を逃れるため、亡命政権により国外に疎開、パリ、ロンドンを経て、カナダのモントリオール銀行オタワ支店の金庫に保管された。ワルシャワに帰還したのは20年後の1959年だった。数奇な運命をたどった楽譜とも言える。
○…ショパン19歳の1829年、コンスタンツィア・グワトコフスカを思って書かれた第2楽章は作品のなかでも指折りの美しさを誇っている。

 参考:佐藤 孝「パピルス」(紙パルプ技術協会誌第59巻第4号所収)

(社会文化塾 伊藤 泰雄)