column 6 of bunkanokaze

社会進出の先駆者クララを描く
○…昨年の初秋に独仏ハンガリー合作の映画「クララ・シューマン 愛の協奏曲」が渋谷など で公開された。2008年に制作され、ドイツの女性監督ヘルマ・サンダース=ブラームスが脚本と監督を担当した。名前からも推察されるように、ヨハネス・ブラームスを出したブラームス家の出身で、今年69歳の敏腕監督。この映画の共同プロデューサーでもある。(続きを読む)

○…シューマン夫妻を取り上げた映画には戦後間もなく1949年公開の「愛の調べ」(米MGM、クラレンス・ブラウン監督)というモノクロ映画がある。クララ役にはキャサリン・ヘップバーン、ロベルト・シューマン役には「カサブランカ」のポール・ヘンリードが扮し、夫婦愛を中心に描かれた。ロベルトの死後も喪服を着てピアノを演奏するクララが印象的だった。
○…「愛の協奏曲」でもクララ(マルチナ・ゲデック)はロベルト(パスカル・グレゴリー)が亡くなったあとも、彼の曲を演奏する姿が描かれるが、監督の描きたかったのはむしろ別なところにあった。クララはピアノの名手として知られ、何人もの子どもを抱えながらも、当時の女性としては珍しく作曲にも手を染めていた。そのうえ夫を助け、激しい頭痛を訴える夫の代わりに管弦楽団を指揮し、見事に楽団員の心をつかむほどの才能を見せた。家庭を守り、女性の社会進出が難しい時代に、仕事も立派にこなしてみせたクララ。そこに時代を超えた先駆者のような姿が感じられる。
○…ブラームス(マリック・ジディ)との関係も描かれている。ロベルトはクララより9歳年上、ブラームスは14歳も年下なので、ロベルトが亡くなった1856年に満年齢でクララは36歳、ブラームスは23歳だ。いわば女盛りのクララと若々しいブラームスの青年ぶりが映像の上で実感できる。ブラームスはシューマンが精神を病み、やがてシューマン家の家計が苦しくなると、クララを物心両面で支え、子どもの面倒もみる。映画では、疲れたクララを思うブラームスが一夜をクララとともにするが、一線を越えることはしない。
○…サンダース=ブラームス監督の描いたクララは、19世紀半ばという時代に精一杯生きた芸術的才能と自立心に富んだ近代的な女性像であろうと思う。

 (社会文化塾 関口 實)

「ああ神様…」シューマンとクララ 別れの場面
○…おそらく遺伝的なものと思われる心の病にずっと悩まされてきたシューマンは44歳のとき、変奏曲を清書中にライン川に飛び込み自殺を図る。そして自ら望んで精神療養所への入院をいよいよ決意する。そのときのクララとの別れ、そして最期を迎える“愛と絆のかたち”とは…。(続きを読む)

○…療養所の医師が迎えにきて、シューマンは馬車に乗る。動きはゆっくり、顔は無表情でじっと足元を見つめている。そのときの様子を記したクララの日記は…。 “…ああ神様…私たちの前に馬車が止まった。ロベルト(シューマン)が大急ぎで服を着て(医師の)博士と2人の従者とともに乗った。私や子どもたちには声もかけずに…。私が彼のために花束を博士に渡すと、博士は彼に渡した。彼はそれを長い間手に持っていた。そして何も考えていないようだったが、突然、ほほ笑みながら博士の手を握りしめた。そのあと彼は馬車のみんなに花を1本ずつ渡した。博士は彼にもらった花を私に持って来てくれた…血のにじむような思いで私はじっと(胸に)押し当てた…”
○…その後2年半、シューマンの療養所生活が続く。クララは何回か療養所に行ったが、医者の指示でシューマンにずっと会えない。そして1856年7月、最期が近いとの知らせで病院へ駆けつけたときの、クララとシューマンの様子…ついに2年半ぶりに2人は再会した。シューマンは肺炎で意識がもうろうとしていたが、力を振り絞ってクララを抱きしめ、ほほ笑みながら二言三言、何か意識のある言葉をつぶやいた…。 
○…それから2日後、シューマンは静かに息を引き取った。このあと40年近くにわたって、クララはヨーロッパ各地で演奏会を開き、シューマンの曲の普及に努めることになる。

資料:「シューマン」(音楽之友社)など

                                 (社会文化塾 清水まさみ)

シューマンがピアノを弾かないわけ
○…シューマンは中学校を卒業してライプチヒ大学の法科に進学した。ある日、大学のカール教授の家で催された家庭音楽会に招待され、その会で後にピアノの師となるフリードリヒ・ヴィーク教授とその娘クララと出会った。クララはまだ9歳のあどけない少女だったが、フンメルの三重奏のピアノ・パートを見事にしかも美しく弾いて、シューマンを驚かせた。(続きを読む)

○…この時をきっかけにヴィーク家に出入りするようになったシューマンは、結局ヴィーク教授にピアノの稽古(けいこ)を受けることになり、ヴィーク家に下宿して本格的にピアノだけでなく、音楽全般の勉強に専念することになった。ヴィーク教授の厳しい指導の下にシューマンは順調に力をつけていったが、ピアノ演奏だけは12歳の少女クララの天才的な流暢(りゅうちょう)な演奏にかなわなくて、功名を急ぐ気持ちを抑えがたく、先生に内緒で、ある種の秘密練習を自室で続けていた。それは「指の独立を強調して指の訓練を助ける機械」で「葉巻マシン」と名付けられていた。
○…ところが、たぶんこの「機械」のせいで、右手の中指とも薬指とも人さし指とも言われているが、まったく動かなくなった。医者とも相談してあらゆる治療法を試したが、どうしても元通りにならずに、結局シューマンはピアノをあきらめ、それ以後は作曲と音楽批評の道を歩むことになってしまった。
○…心ならずも指の障害で作曲家の道を進むことになったシューマンだったが、また幸いなことに1842年の徴兵の際、指が動かないという理由で兵役を免除された。その間作曲に専念できたことはシューマンにとって幸いというべきかもしれない。

 資料:「大作曲家たちの履歴書」(上)三枝成彰著 中公文庫
     「名曲物語」野呂信次郎著 社会思想社

                                 (社会文化塾 鎌倉 攻)

クララに「参った」ブラームスもショパンも
○…世界の文化芸術の歴史を一手に引き受けてきた感のあるヨーロッパにして、変な“因習”が あったものだ。いくら音楽の才能に優れていても、女性は作曲したり指揮をしたりするものではないという…。クララ・シューマンは作曲の志を強く持っていたようで作品も残っているが、あきらめて演奏家の道を歩んだ。そして、彼女の才能を高く評価していたのは、ほかでもない同時代の大作曲家たちだった。続きを読む)

○…ブラームスが14歳年上のクララにあこがれの念を抱くのは、夫ロベルト・シューマンに尽くす聡明(そうめい)な女性の理想を見たから…だけではあるまい。クララが弾いたピアノがどの曲も感動的に響いたからだ。夫の曲が多かったようだが、ブラームスの作品も弾いただろう。作曲家にとって、自分の曲をイメージ通りに弾いてくれる演奏家ほどありがたいものはない。しかも自分を引き立ててくれた恩人の妻でもあり、好意を抱くのはまったくもって自然だ。いや、20代の純真な若者にとって、好意以上の感情を抱いたとしてもおかしくない。
○…シューマンとブラームスが出会って半年後に、シューマンは精神療養所に入院するのだ が、シューマンの死後40年にわたって、ブラームスはクララとその子どもたちに物心両様の支援者となって尽くすのだ。
○…ピアノの詩人ショパンの心情もブラームスに近いものだった。シューマンには音楽雑誌に褒めて書いてくれたことのお礼のために会っている。しかし、それよりもショパンの練習曲集をうまく弾いたクララの演奏に、自分の感性と同じものを見た。ショパンは実はその前に弾い たリストの演奏に違和感を感じてがっかりしていたのだが、クララについては「この人こそ、この曲集を演奏できる唯一の女性だ」と感嘆している。
○…演奏家としてのクララの名声は、こうした有力な作曲家たちの評価を得てヨーロッパ中に広まっていく。作曲家や世間の称賛を浴びながら、シューマンの妻としてのクララは彼の死後もひたすらシューマンの曲の普及に努めるのである。7人の子を育てながら…。

資料:「シューマン」「ブラームス」「ショパン」(音楽之友社)など

                                 (社会文化塾 清水まさみ)

100マルク紙幣にクララの肖像
○…ヨーロッパ共通通貨ユーロに統合される前のド イツ・マルク紙幣にクララの肖像が使われている。彼女は19世紀においてもっとも人気のあるピアニストであり、18歳ですでに栄誉ある「宮廷音楽家」の 称号を与えられ、詩人ゲーテも「才能ある芸術家クララ・ヴィークのために」という銘文を刻んだメダ ルを贈っている。(続きを読む)

○…彼女は7人の子どもを育てながら、ヨーロッパ を回っての大変ハードな演奏旅行をこなしている。今のような便利になった時代と違い、その苦労は並大抵ではなかったと思われる。夫ロベルトが亡くなってからは、ロベルトが残した曲を演奏し、かつ楽譜を出版し、その普及に努めながら76年の生涯をひた走った。
○…14歳年下のブラームスとのロマンスは有名である。ロベルトが「おれは知っている」と、うわ言のような遺言を残したことが、彼女の日記に書かれている。これはブラームスとのロマンスを指すのではないかと、ロベルト没後150年以上経た現在も不倫説が絶えない。一時期は末子のフェリックスはブラームスの子どもという風説まで飛び交ったほどであった。ブラームスは聡明(そうめい)なクララに魅せられ、思慕の念を抱いていたことは事実である。彼は生涯を独身で貫き、クララの死の翌年、後を追うように病没している。

(社会文化塾 佐々木 邁)

クララを聴き西郷どんに会った男
○…駐日英国外交官アーネスト・サトウ(1843ー1929)は生粋のドイツ系英国人である。19歳で英国の大学を卒業してすぐに幕末の日本に赴任、横浜の英国大使館で日本語通訳官となった。サトウの上司は北京大使館で大使としてらつ腕を振るっていたサー・パークス。当時外地で5年勤務すれば、1年の休暇が与えられた。長期休暇は弁護士になるための研修と音楽会特にクラシック音楽のコンサートに使われた。(続きを読む)

○…彼の1876年(明治9年)の日記によると、3月23日ロンドンの「フィルハーモニック・コンサート」でクララ・シューマンのピアノ演奏でシューマンの交響曲第2番をはじめ、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番などを聴いている。この日のサトウは演奏に対して感想は何も書いていない。2日後の25日には「土曜のポピュラー・コンサート」で、再びシューマン夫人(サトウはクララをこのように書いている)の弾くシューマンのピアノ曲「クライスレリアーナ」の2、4、5、8番とシューマンのピアノ五重奏曲 変ホ長調をブラームスの友人ヨアヒムの指揮で聴いた。この日もサトウは例のごとく感想を何も書いていない。その後サトウは好きな音楽会と旅行で過ごしていたが、やがて休暇の終わりの11月がやってきた。
○…上司のパークス大使から帰路に鹿児島の西郷隆盛の門下生の不穏な動きを視察するようにとの指示がきていた。11月10日船でロンドンをたちスエズ運河、インド洋経由で1月1日シンガポール着。17日上海に着くと英国大使館の友人らと情報交換などして、26日三菱汽船の広島丸で長崎に向かい、28日に長崎港に着いた。留守をした1年余の間に日本各地では不平士族の反乱が起こっていた。サトウはパークス大使の指示がなくても鹿児島を訪問したい事情があった。長年の友人ウイリス医師が鹿児島県の雇われ医師として赴任していたのだ。サトウは彼が西郷の依頼で西南戦争に強制的に参加させられているのではないかと心配だったが、無事だった。2月11日突然西郷がウイリスを訪ねてきた。サトウやウイリスも西郷を訪ねたいと思っていた矢先だった。しかし、サトウの日記には「会話は取るに足りないものであった」としか書いていない。

 (社会文化塾 鎌倉 攻)