column 5 of bunkanokaze

チャイコフスキーの名曲誕生の苦難3題
1.ピアノ協奏曲 第1番 変ロ短調 
○…ペテルブルグ音楽院を卒業した25歳のチャイコフスキーをモスクワ音楽院に招いてくれた恩人ニコライ・ルビンシュタインに献呈するつもりで、苦心して作曲した最初のピアノ協奏曲。訪問して聞いてもらったところ、このままでは演奏不可能といわれ、その言葉の厳しさに感情を強く害し、作品の献呈を思いとどまって、当時のドイツでの音楽のよき理解者で、名ピアニストであった指揮者のハンス・フォン・ビューローにささげることにした。(続きを読む)

○…ビューローはアメリカにおける演奏旅行の途中ボストンでこの素晴らしいピアノ協奏曲を初演して大好評を博した。その後ロシア国内においてもこの曲の良さが認められ、ニコライ・ルビンシュタインも自分の不明を悟り、チャイコフスキーと仲直りして長く親交を続けた。後年パリで急死したニコライのためにチャイコフスキーが作曲した唯一の三重奏曲は「ある偉大な芸術家の思い出のために」と名付けられた。

 2.ヴァイオリン協奏曲 ニ長調
○…チャイコフスキーがモスクワ音楽院の教授をしていた時、アントニーナという女学生から熱烈な恋文を受け取った。それが始まりで相手の熱烈さに押し切られる形で、周囲の反対を無視して結婚した。チャイコフスキー37歳、アントニーナ28歳という分別もある二人であったが、チャイコフスキーは9週間でこの結婚は間違いだったと悟った。彼は神経衰弱にかかり、周りの勧めもありヨーロッパ旅行に出掛け心の傷を癒すことにした。パリで聴いた名手サラサーテの弾くラロの「スペイン交響曲」に深い感銘を受け、ヴァイオリン協奏曲の作曲に意欲を燃やした。スイスのジュネーブに滞在して1カ月間で完成させた。  
○…ペテルブルグ音楽院の教授で名声高いヴァイオリニスト、レオポルト・アウアーにささげようとして批評を仰いだところ「演奏不可能」の一言で拒否された。それから3年間は日の目を見ないで埋もれていたが、1881年になってチャイコフスキーの友人で、ライプチヒ音楽院の教授のヴァイオリニスト、アドルフ・ブロドスキーがこの名曲を発掘し、初演にこぎつけたが、当初は批評家たちの評判はあまり良くはなかった。ブロドスキーはそれでも悪評にも負けず演奏活動を続けた結果、各地でこの曲の真価が認められ始め、当初「演奏不可能」といったアウアーもこの曲を自分のレパートリーに加えて演奏するようになった。

 3.交響曲 第6番 ロ短調 「悲愴」
○…チャイコフスキーの亡くなる9日前に作曲者自身の手で初演、指揮されたこの曲も初演の結果は、楽員も聴衆も良く理解できなかったようで、大作曲家に対する儀礼的なマバラな拍手しか起こらなかった。「悲愴」という標題もまだ付いていなかったせいかもしれない。「全神経を打ち込んで」作曲した自信作のつもりであったはずだったが、この不評に気落ちしたのか、その4日後にレストランで飲んだ生水にあたり、当時流行していたコレラにかかり急死してしまった。その死があまり急であったため「不評」を気にして自殺したのでは、と人々はうわさした。


参考 野呂信次郎著 「名曲物語」 社会思想社
   伊藤恵子著  「チャイコフスキー」 音楽之友社

(社会文化塾 鎌倉 攻)

ピョートル大帝の妃
○…ロシアと言えば、ロマノフ王朝の皇帝として、一代にして辺境の国から近代化を進め今につながる国家を建設したピョートル大帝(1672-1725)の名が浮かぶ。改革推進に妥協はなく、ペテルブルグ(現サンクトペテルブルク)に象徴される新都の建設とヨーロッパ文明の移入、さらに大国スウェーデンとの戦争に勝利し、ツアーリと呼ばれるようになった一生は、一瞬の夢とも言える。(続きを読む)

○…ピョートル大帝は自分の長男を反逆者として処刑し、皇位継承者がなくなったため最後まで後継者で苦しみぬいた。これが起点となって18世紀のロシアには「女帝の時代」と言われる4人の女帝を輩出した。まず登場したのがピョートル大帝の皇后から皇位を継承したエカテリーナ一世(1684-1727)だ。
○…ソ連時代は皇帝の伝記は限られたものしか刊行されず、エカテリーナ一世の伝記はいまもない。革命前の文献によると、彼女の生涯は劇的だ。リトアニアの農民の娘で、洗濯女をしていた彼女とピョートル大帝との出会いは、スウェーデンとの戦いの戦陣の中だった。彼女は従軍し大帝の心をつかんだ。大帝は1724年5月7日エカテリーナの戴冠式を宣下し彼女は皇后となった。翌年大帝の逝去に当たり、エカテリーナは面目躍如と言える手を打った。
○…それはフェオドーシー大司教と組んで大帝の遺書を偽造したと言われる策謀だ。自分を皇位継承者に指定した内容で、同時に近衛連隊を動員し、モスクワの対抗勢力を抑えつけた。クーデターである。自分の生き残る道はこれしかないという権力志向だ。
○…エカテリーナの治世はわずか2年余りで病没のため終わった。その間、遺書の件を闇に葬るため、大司教を極北のアルハンゲリスク修道院に幽閉し亡き者にする。女帝誕生はこのような女傑の出現があって初めて実現した。権力闘争の末はつねに「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり…」である。
○…その後、アンナ、エリザベータ、エカテリーナ二世と三人の女帝が生まれた。なかでもエカテリーナ二世は啓蒙専制君主として有名だ。                    
参考:河島みどり著 「ピョートル大帝の妃」

 (社会文化塾 伊藤泰雄)

                                )

ロシア正教とギリシャ正教
○…今回のコンサートでは、演奏会で取り上げられることが珍しいロシア正教の聖歌「ヘルヴィムの歌」が歌われる。「ヘルヴィム」とは、旧約聖書によると神殿に仕える九天使のうち第2位の天使で4枚の翼を持つとされ、知識をつかさどる「智天使」と訳される。(続きを読む)

○…東京・千代田区に通称「ニコライ堂」という「日本ハリストス正教会東京教会」がある。ハリストスとはキリストのギリシャ語読みで、ロシア正教につながる教会堂だ。さらにロシア正教の起源をたどるとギリシャ正教に行き着く。その誕生の経緯を振り返ると…
○…約2000年前、イエス・キリストの弟子や宣教者は、ローマ帝国内でネロ帝などの迫害を受けながら宣教し続け、ついに西暦313年コンスタンティヌス帝のミラノ勅令で公認された。キリスト教は全ローマ帝国内に広がり、392年テオドシウス帝はキリスト教をローマ帝国の国教とし、他宗教を厳禁にした。しかし、395年ローマ帝国は東西に分裂してしまう。
○…西ローマ帝国は476年ゲルマン民族の侵入で崩壊したが、コンスタンチノープル(現イスタンブール)を首都とした東ローマ帝国は1453年まで続く。この間、キリスト教自体でも東西対立を深め、東のコンスタンチノープル教会はヴァチカンのローマ法王の首位性などを問題にし、11世紀には相互に破門を言い渡す事態になった。これより先、10世紀にはロシアのキエフ公がキリスト教(ギリシャ正教)に改宗し、これがロシア正教へと発展して行く。
○…ギリシャ正教はキリスト教会の原始教会の面影を一番残している。例えば、聖職者が衣以外に身に着けているものに「きれの数珠」がある。この数珠は音を出さないよう、祈りの妨げにならぬよう、音を聞きながら祈りに陶酔してしまわないように配慮して、ひもを編んで作られている。
○…十字の描き方は、正教では額から胸へと下ろし、右肩、左肩の順で行う。右肩を先にするのは「神の右手」に座すキリストを想起させると言われる。指の握り方は親指、人さし指、中指の3本指を合わせ、あとの2本指を折る。カトリックでは、親指と薬指、小指を折り、2本指で額から胸に下ろし、左肩、右肩の順で十字を描く。祈りの仕方も両者はこのように違っている。 
                                 
参考 高橋保行著 「ギリシャ正教」
    浅野和生著 「イスタンブールの大聖堂」

  (社会文化塾  中川 清)

ショスタココヴィチのひそかな反乱
○…ソビエト連邦の1930年代は、スターリン(1879-1953)が一国社会主義の実現へ向けて反対者を投獄、銃殺した“暗黒時代”がピークに達したときだった。粛正は文化・芸術にも及び、文学・演劇・音楽などの新しい試みは不道徳・ブルジョワ趣味などと批判された。犠牲者は数十万人から100万人規模といわれる。続きを読む)

○…ドミトリ・ショスタコヴィチ(1906-75)は十代でモーツァルトの再来といわれ、音楽院の卒業作品、交響曲第1番は各楽器が色彩豊かにぶつかり合って輝く斬新な音色で、瞬く間に世界中で演奏されるようになった。新しいオペラの開拓にも意欲的だったが、スターリン全盛期に発表した「ムツェンスク郡のマクベス夫人」(1934)が事の発端になった。
○…欲求不満の新妻が使用人と関係し、夫と義父を殺すという原作に基づくこのオペラは評判を呼んだが、ソ連政府や共産党機関紙プラウダからは激しい批判を浴びる。予定していた交響曲第4番の発表も危うくなったため、ショスタコヴィチは思い切った策に出る。革命20周年記念として交響曲第5番(通称「革命」)を発表し、世の絶賛を得て名誉を回復するのだ。
○…一見、時の支配者に屈服したかに見えたこの曲、実は巧妙な仕掛けがあった。第4楽章の初めでビゼー「カルメン」のハバネラを引用したが、「ソ・ド・レ・ミ」のミをミ♭と半音下げ、そのあとの合唱につなげた。その合唱とは「信じるな!」と何回も叫ぶものなのだ。そしてフィナーレで背景に「ラ」音(古語で「私」の意味)を何回も続け、さらにミ音を元の長調に戻して「信じるな」「信じるな」と叫ぶメロディーが続くのである。多数の市民を犠牲にした国づくりを、ショスタコヴィチはひそかに非難したのだ。「私は社会主義を信じない…」と。
     
参考 NHKテレビ 亀山郁夫氏等

 (社会文化塾 清水まさみ)

映画「チャイコフスキー」
○…アメリカ映画「真昼の決闘」「アラモ」のテーマ音楽で有名なドミトリ・ティオムキンが、一時母国に戻って総指揮・製作した1970年のソ連映画。当初はティオムキンの長年の構想をもとに米ソ合作映画として企画されたが話がこじれ、ソ連がティオムキンを招く形で作られた。(続きを読む)

当時のフルツェーワ文化相のお声掛かりで、映画・音楽界が総力をあげて協力した。監督はベネチアなどの国際映画祭で受賞経験のあるタランキン。撮影は現在でも珍しい女性カメラマン、マルガリータ・ピリヒナで、流麗な映像は美しい音楽映画にふさわしい。チャイコフスキーを演じたスモクトノフスキーは、繊細で傷つきやすい音楽家を好演し、重要な相手役、フォン・メック夫人はシュラノーワが演じた。
 このほかロジェストベンスキーらが指揮するレニングラードフィル、ボリショイ・オペラ、同バレエ団が協力した。一部、二部に分かれ、2時間35分の大作だ。
○…1875年チャイコフスキーは設立されたばかりのモスクワ高等音楽院で教えるかたわら、「ピアノ協奏曲第1番」を作曲した。しかし、師であり親友でもあるニコライ・ルビンシュタインから、ピアニストが弾きにくいと批判された。そのころチャイコフスキーの音楽を高く評価した大富豪の未亡人、メック夫人から「会わない」という条件つきで、6000ルーブルもの年金を提供された。手紙は頻繁に交換していただけに、会えない焦燥感がつのった。
○…やがて彼はイタリアのソプラノ歌手、デジレ・アルトーを恋するようになるが、結局結ばれずこの時の苦い記憶からバレエ曲「白鳥の湖」が生まれた(アルトー役は有名なプリマ・バレリー,ナプリセツカヤ)。その後プーシキンの原作の「エフゲニー・オネーギン」の作曲に没頭していた。ある日教え子のミリューコワから手紙を受け取り、これが契機で二人は結婚するが、性格が合わず早々に離別した。苦悩と孤独の毎日を一新しようと国外旅行に出た。ちょうどそのころ、演奏旅行中のルビンシュタインがパリで急死した。チャイコフスキーは駆けつけ、親友の死を悼んだ。後年ピアノ三重奏曲「ある偉大な芸術家の思い出のために」が作曲された。
○…モスクワ郊外に初めて自分の邸宅を構え創作力は回復していく。同時に「死」とのかっとうを意識した作品も生まれる。こうした彼を支えてきたメック夫人から、年金提供がもはやできなくなったと通告される。13年間、1200通に及ぶ手紙をやりとりしながら、ついに一度も会うことなく二人の間はプラトニックラブに終わった。1893年交響曲第6番「悲愴」の初演を自ら指揮した。しかし、その9日後、「悲愴」の最終楽章が静かに消えていくように生涯を閉じた。

(社会文化塾 関口 實)