column 4 of bunkanokaze

"さすらう魂"の終着駅…「冬の旅」
○…1828年2月。早春の寒い日だったが、シューベルトはいつもと違って至極元気そうに見えた。仲間の人たちが彼のために開いてくれた会。シューベルトが突然大きな声で言い出した。「今日は僕の苦心の作の素晴らしい歌を披露しましょう」。友人のシュパウンとショーバーはそれを聞いてホッとした。「よかった!最近君は元気がなかったが、病気でなくて…」(続きを読む)

○…「この曲は詩人ウィルヘルム・ミュラーの詩集『冬の旅』に作曲したものです。全部で24曲あるのですが、今日までやっと半分しか出来ていないのですが」…そう言ってシューベルトは1番目の曲“おやすみ”を静かに歌い始めた。彼は11歳で宮廷付属の少年聖歌隊訓練学校(コンヴィクト)に入ったこともあり、30歳(死の前年)のその日も変わらぬ美声で歌った。
○…5曲目の“菩提樹”が終わったとき、ショーバーは感激して「この“菩提樹”は実にいいな」と言った。「実は僕もこの曲が好きなんです」とシューベルト。「しかし“菩提樹”だけでなく、『冬の旅』の中のどれもこれも、世間の人たちはきっと好きになってくれるでしょう」。シューベルトは自信をもって友人たちに答えた。その後、宮廷の有名な主席バリトン歌手フォーグルが心をこめて歌って、『冬の旅』はウィーン中で評判になり、後世に残ることになった。
○…フォーグルとシューベルトは1817年、「シューベルト友の会」(シューベルティアーデ)で知り合った。フォーグルが30歳も年長であるにもかかわらず意気投合し、オーストリア・ハンガリア帝国内を演奏旅行した仲だった。シューベルトが若くして死んだとき、70歳を超えたフォーグルは数人の親しい友人を招き、最後のささやかなリサイタルを開いた。老齢と痛風で苦しんでいたにもかかわらず『冬の旅』全曲を、声は弱かったものの巧みな歌い回しに少しも衰えを見せずに歌い切った。若いシューベルトの才能を見出して育て、その歌曲を広めた功績は大きい。 


参考: 野呂信次郎 「名曲物語」   

  (社会文化塾 鎌倉 攻)

わが恋の終わらざるごとく…映画「未完成交響曲」
○…シューベルトの若き日の悲恋を未完成交響曲に託して描いた1933年(昭和8年)制作のオーストリア映画が「未完成交響楽」だ。ウィリ・フォルスト監督のデビュー作。わが国では35年3月帝国劇場で封切られ、女優マルタ・エゲルトの歌とともに大いに評判になった。(続きを読む)

○…ウィーンの貧しい小学教師で音楽に打ち込むシューベルト(ハンス・ヤーライ)は、ある日貴族のサロンで求められるままに未完成交響曲のモチーフをピアノで弾いた。ところが第3楽章にくると突然の女の笑い声で演奏は中断された。シューベルトは失意のまま、その後ハンガリーの伯爵令嬢の家庭教師に雇われた。その令嬢カロリーヌは何とあの笑い声の女性だった。
○… 彼女は自由奔放な性格だが、シューベルトの教えには忠実だった。村祭りの酒場で二人は夜遅くまで踊り、カロリーヌは切々と恋心を歌った。二人は夜明けの広い麦畑で抱擁した。しかし、カロリーヌは親の決めた侯爵令息と結婚しなければならなかった。式に招かれたシューベルトは披露宴で再びあの曲を弾いた。第3楽章に入ろうとした時、花嫁は失神し会場は混乱した。彼は楽譜に「わが恋の終わらざるごとく、この曲も終わらざるべし」と書いて、傷心のまま立ち去ったー
○…甘く流麗にシューベルトの恋を描いたこの映画は、その音楽とともに当時の人の心をとらえ、内容的にもキネマ旬報4位の成績だった。フォルスト監督はその後「たそがれの維納(ウィーン)」などを作った。戦時中はヒトラーに協力せず、戦後は復活したが、80年死去した。


 (社会文化塾 関口 實)

平成の"さすらい人"
○…シューベルトのピアノ三重奏曲第1番を聴いた。それは、中野の商店街にあるしゃれた店構えのフランス料理店。市民価格でワインを飲みながらフランス料理とクラシック音楽を楽しむゆったりした少しだけ贅沢な時間であった。(続きを読む)

○…シューベルトの時代は、フランス革命後の自由と平等を市民が標榜する時代で、貴族階級の特権であった音楽に、市民たちも恩恵にあずかるようになる。家族や友人たちとのサロンやプライベートなパーティーが盛んに行われたのもこの時代である。一方産業革命の時代でもあり、徒弟制度が崩壊し、若者は将来に対する不透明感からの漠然とした不安を感じていた時代で、シューベルトの歌曲が受け入れられたのはちょうどこのような時代背景があった。
○…シューベルトは音楽の才能に恵まれ、市民の心情を歌った歌曲は人気があったが、出版社が楽譜を積極的に出版するまでには至らなかった。生活は決して豊かなものではなく、生活の拠点が定まらず友人の世話になりながらの活動で、音楽家でありながら自分のピアノすら持っていなかったようだ。今でいうフリーターのような生活をしていたのかもしれない。
○…現代の情報革命、グローバル化、そして経済の混迷、就職内定取り消しや非正規労働者の悲惨な状況など将来に対する夢が描けない状況を考え、またネットカフェや個室ビデオで寝泊まりしている人たちがたくさんいるとのニュースを聞くと、シューベルトの時代にタイムスリップしたような錯覚を覚える。そのような思いでシューベルトのピアノ三重奏曲を聴いた年末であった。               

                              (社会文化塾 佐々木邁)


水を濁らせて釣られた…「ます」
○…ウィーン南西200㌔のザルツカンマーグート(塩の宝庫の意)地方は、山と湖に囲まれた珠玉の街が点在するところだ。塩分を含む温泉地でもあって、ヨーロッパ中から貴族や文化人がよく訪れた。シューベルトがこのあたりを訪れたのは1819年(22歳)と1823年(26歳)の夏。いずれも歌手フォーグルの帰省について行った。続きを読む)

○…その街のひとつハルシュタット(ケルト語で塩の場)は、雪をかぶった山が落ち込む湖のほとりに静かにたたずむ風光明媚な地である。細い石畳の坂道。人々は自転車で下り、自転車を押してのぼる。歩く人も店の人も、表情はにこやか。乳母車の赤ん坊のほっぺたをツンと突いてすれ違うおじさん。家の壁に「1780」の築年…穏やかなこの街をみんな心から愛している様子がうかがえる。
○…山腹では紀元前から岩塩が採掘され、街と塩坑をつなぐケーブルカーは観光ルートになっている。これが街の富と文化の源泉になった。木工の街でもある。マンドリンの一種である古楽器などの製作を教える学校では、十代の生徒がナイフでマンドリンのハラを無心に削っている。協会の尖塔も木製、墓の墓標にも木の彫刻がついている。
○…シューベルトの若いころの名曲『ます』は、こうした街の湖に泳ぐますを見てつくられたのだろう。初め詩人シューバルトの詩に歌曲として作曲され、のちにピアノ5重奏曲にもなった。現地の鉱山経営者の依頼によるものとされる。
歌詞はこうだ。
澄んだ川をますが矢のように泳いでいる/水が澄んでいる限りますは釣られないだろう/だが釣り人は水をかき回して濁らせてから釣ってしまった/私は腹を立てながらそれを見つめていた
○…このあとの最後の節の詩にシューベルトは曲を付けていない。その内容は
娘たちよ、あなた方には用心深さが欠けている/見よ、釣り針を持って誘惑する男たちを/さもないと後悔するぞ(詩は意訳)
  シューベルトがこの部分を作曲する気がしなかったとしたら、それは美しい自然の情景が一気に通俗に転じる…と感じたからだろうか。

参考:NHKテレビ ウィキペディア 村田千尋「シューベルト」など

                                 (社会文化塾 清水正己)

シューベルトを育てた寄宿舎生活
○…シューベルトのあまりにも短い人生でその人間形成の素地となったのは、寄宿学校コンヴィクト(少年聖歌隊訓練学校)の給費生時代のようである。11才のとき合格し、秋に寮に移り住み、ここで5年あまりの学校生活を過ごしている。(続きを読む)

○…この学校で得たものとして三つのことがあげられる。第一は基礎教育で、道徳、宗教、地理、と歴史などが教えられ、ラテン語、ギリシャ語を学んでいる。文学教育は彼の審美眼の源となり、たとえば、最晩年の歌曲『白鳥の歌』の「アトラス」における大胆な詩形式の変更などがそれだ。第二は本格的な音楽教育で学科以外に歌唱、ピアノ、ヴァイオリンが課せられ、その成績は抜群であった。第三の宝は、のちのちまで重要な意味をもつ友情の数々である。
○…このような教育を素地にしてシューベルトの性格は形成され、その容姿はかならずしも見ばえのするものではなかったが、その性格は人に愛されるものだったようだ。ゾンライトナーは、「シューベルトの性格は単純、誠実、実直であった。音楽に情熱を燃やすと同時に、愛情深い息子であり誠実な友人であり感謝の心を持つ生徒であった。」と評している。
○…このように誰にも愛され、友人にも恵まれたシューベルトだったが、1828年病魔に倒れ、闘病生活に入る。11月19日「これで僕は最後だ」と言い、兄に看取られて最後の時を迎えた。前年1827年3月、シューベルトは臨終のベートーヴェンを見舞い、3月29日の葬儀に松明を持つ侍者の一人として葬列に参加した。それから1年間、自分の寿命を知っているかのように精力的な創作活動を続けた。以前から健康不安を感じていたようで、『冬の旅』もおそらく死を見つめながら作曲している。
○…彼のその時期の心境は? 推測するに禅語の「一日作さざれば一日食わず」か。

参考:村田千尋「シューベルト」ほか               

   (社会文化塾 伊藤泰雄)

短くも…しあわせな生涯
○…19世紀のウィーンはヨーロッパの中で最も豊かで幸せに満ちた都市で、とりわけ芸術家には居心地のいい場所だった。1806年神聖ローマ帝国が解体、オーストリア大公国・ボヘミア王国・ケルンテン公国・ハンガリア王国・ポーランドの一部を統合してオーストリア帝国とし、教会はカトリックとなった。(続きを読む)

ベートーベンをはじめヨーロッパのあらゆる地域から音楽家・芸術家がやってきた。この人たちを支えるのは王室や教会ではない。担い手は旧来の貴族階級と弱小貴族出身の高級官僚、それに裕福な都会化したブルジョワジーだった。だが保守主義的で、ベルリンのブルジョワのようなサロンではなかった。
○…生粋のウィーン生まれのシューベルトは教員一家の12番目の子として生まれた。音楽家希望のフランツは幸運にも寄宿生学校に入り音楽を学んだ。学生時代から学生オーケストラのバイオリン奏者やコンサートマスターを務め、作曲も「幻想曲ト長調」(1810)が知られている。「水車小屋の娘」(1822)は全20曲の歌曲につながりを持たせて一つの話を語るという、思い切ったことをした初の試みだった。さらに歌手なら誰でも歌える声域で仕上げているのは、後世の作曲家に影響を与えた。
○…シューベルトについて音楽イベントプロデューサー青島広志氏は、「最も有名なW.A・リーダーの手による肖像画を見ると、シューベルトの性格がまるで手に取るように浮かんできます。――人のよさ、実直さ、勤勉さ、引っ込み思案、助けてあげたくなるような弱さ、田舎臭さなどがすぐにみてとれ、すばしこさ、経済観念、華麗さなどはみじんも感じられない。まるで小説や映画の脇役で、ぐずぐずしているような人物に思えます」と書いている。
○…あまりにも短い生涯だったが、伝記作家の幾人かが吹聴するほどウィーンでシューベルトは無名ではなかった。音楽を家庭の中におく友人たちのサークルでアピールしていた。「弦楽四重奏ニ短調<死と乙女>」などの成功を収めて1828年3月自分の演奏会を開き、ウィーンの音楽生活に地歩を築いた。幸せな時代を駆け抜けたシューベルトの作品は輝き続ける。


参考:リンガー/西原実「ロマン主義と革命の時代」    
    青島広志「シューベルトとウィーンの音楽家たち」

(社会文化塾 中川 清)

「歌曲王」…なぜシューベルトか
○…戦後の貧しかった日本で、「野ばら」や「菩提樹」に心癒された人は少なくないだろう。シューベルトの美しいメロディーは、音楽好きの人はもちろん、まるで音楽に無縁の人たちにも、今も変わらず愛されている。(続きを読む)

○…声楽曲の一分野である「歌曲(リート)」は、ドイツ(含オーストリア)では18世紀後半の古典派時代に誕生した。それまでの管弦楽付きのアリアや宗教曲に対して、歌曲のほとんどはピアノの伴奏で構成され、サロンや小さなコンサート会場で演奏された。そしてロマン派の時代、シューベルトによって歌曲は芸術的に大きな飛躍を遂げる。詩と音楽が融合して作り上げるドイツ歌曲の世界がここに確立されたといえよう。シューベルトは歌曲の歴史を塗り替え、後世の作曲家に大いなるインスピレーションを与えた。
○…なぜその担い手がシューベルトだったのか。それは、シューベルトの天性の才能に加え、その時代のドイツでゲーテ、シラー、ハイネなどの詩人が活躍し、次々にすぐれた作品を発表したこと、現在のようなピアノが発明され音楽表現の幅が広がったこと、自然を愛するドイツ人気質…などに深く関わりがあるようだ。シューベルトはさまざまな試みを経て、詩の内面や情景の陰影を音楽に映し出すことに成功した。菩提樹の葉のざわめき、小川のせせらぎ、魔王のささやき、水面を渡る陽光の色彩、揺れ動く心の奥底……。彼の生み出す歌曲は歌とピアノが描く1枚の絵画のようでもあり、起伏に富んだ物語でもあった。
○…短い生涯で600余曲という膨大な数の歌曲を残しただけではない。やはり「歌曲王」の名はシューベルトにこそふさわしい。

参考:音楽の手帳「シューベルト」、シューベルトの歌曲をたどって ほか

                            (社会文化塾 宗 いづみ)

シューベルト、その愛と苦悩
前回のベートーヴェン『不滅の恋人』とは違い、今回のシューベルト『魂のさすらい』の台本づくりは、非常に難しかった。限られた公演時間の中で、どこにポイントを絞り人物像を浮かび上がらせればよいのか。『不滅の恋人』の時は、背景に「残された手紙」のミステリーがあったが、今回はそうはいかない。しかもシューベルトが生きた時代を伝えるのがとりわけ難しかった。(続きを読む)

 そうした中で、主催者側から指示されたことの一つに、「愛を歌えば苦悩となり、苦悩を歌えば愛になる」との一節を盛り込んで欲しいというものがあった。これはシューベルトが25歳の時に書いた『私の夢』と題する作文のなかに書かれている文言である。だがそれだけを見ても、意味は解らない。しかし、自分の父親との間で起きた出来事に関する記述と、この文の直前にある「愛を受け入れてくれなかった人たちへの限りない愛で胸をいっぱいにして、再び遠くの土地へとさすらっていった」を読んで、私は「こういう意味であったに違いない」と確信したのだった。それが、今回の公演台本の中に書いた解釈である。
 音楽に限らず、何事も「本物」というものは、俄かには受け入れられない。大衆の多くは権威主義、迎合主義である。次元が高ければ高いものほど、真の理解者は少なくなってゆく。そこに表現者としての苦悩がある。しかし時代を超えて生き残るものは、結局は「本物」のみなのである。シューベルトはそれを如実に示している。

(シナリオ構成:橘カオル)