column 3 of bunkanokaze

創造性を主張する 〜シューベルト ショパン マーラー…
◎…市民が「自分」を主張し始めた――それが「ロマン派」の始まりと言っていいだろう。産業革命やフランス革命を経験した市民階級は、18世紀末から19世紀初めにかけて文学や音楽の分野で個人主義と歴史主義(民族主義)を通じて自己の創造性に目覚め、活発な活動を始めた。(続きを読む)

アメリカの独立戦争や、フランス共和国の成立をめざしたいわゆるナポレオン戦争を背景として、従来の専制政治や教会の旧守主義の抑圧からの解放を求める市民階級のエネルギーが、各分野でロマン主義活動を刺激し、新たな展開を興隆させて行った。
◎…「ロマン」とはロマン語(中世フランス語)で書かれた物語を指し、ロマン主義はそれらの物語に伝えられたロマネスク時代の騎士や貴婦人たちの、自由闊達に生きた世界への憧れを意味した。だからロマン主義運動とは、従来の中世的な古典主義の普遍的・理性的な規範に対する対抗・反作用として進展して行った。
◎ …シューベルトがウィーンで、尊敬するベートーヴェンの家の近くに住んでいながら、日常的な親近さを見せなかったという奇妙な話が伝えられている。まさに敬して近づかなかったのだが、それはベートーヴェンが一面に持っていた古典主義的な雰囲気のゆえではなかっただろうか。
◎ …19世紀初頭のスティーブンスンの蒸気機関車の発明、普及によって、ロマン派の音楽家たちの演奏活動は広範囲に可能になり、各都市で行われた演奏会への市民層の参加も活発になって行った。またドイツでは、バッハやベートーヴェンのような古典派音楽家が、活動後期にはロマン主義的な作品も生み出すようになった。その関係 でドイツを中心としてウェーバー、シューベルト、メンデルスゾーン、シューマン、ベルリオーズ、ショパン、リスト、ワーグナー、ブルックナー、ブラームス、フランクなどそうそうたるロマン派の巨匠たちが出現した。 1850年以降に生まれたいわゆる後期の巨匠としてはエルガー、マーラー、リヒアルト・シュトラウス、シベリウスなどがあり、音楽の可能性を一段と広げて行くことになる。  

(社会文化塾 鎌倉 攻)

音楽愛好家のあこがれ〜「ヴィルトゥオーゾ」
◎…西暦1800年からのほぼ100年間が音楽ではロマン派の時代といわれ、それまで実質的に貴族と教会に独占されていた音楽が市民権を得てきた。音楽が民主化されたこの時代、市民は音楽のある暮らしに手が届くようになり、お金を出せば誰もが音楽を聴くことができるようになる。(続きを読む)

一方音楽家は、演奏会や楽譜を通して自らをアピールすることが可能になった。楽譜の出版が活発になり、名品を軸に演奏会が盛んに開催される。
◎…音楽をより公正に判断するために登場してきたのが音楽批評で、無数の音楽雑誌が創刊される。封建的な徒弟制度ではなく、またある程度の才能がある生徒なら誰でもが体系的な高等教育を受けられる音楽学校が各都市に設立された。後世にも馴染みの深い大作曲家が次々と生まれたのもこの時代だ。
◎…そして素人には真似ができないような“超絶技法”を持つ演奏家が人気を博すようになる。いわゆる「ヴィルトゥオーゾ・ブーム」(演奏の名手ブーム)の到来だ。中でも「ピアノの魔術師」と呼ばれたリストは、その余りある才能と技巧から「指が6本あるのではないか」とまともに信じられていたほど。ヴァイオリニストのパガニーニも「悪魔に魂を売り渡して超人的な演奏ができるようになった」といううわさまで広がったという。
◎…そのほかヴァイオリニストのサラサーテ、またピアニストとしてはフンメル、ショパン、タールベルク、そして名手ラフマニノフなどがヴィルトォーゾとして活躍した。
参考:岡田暁生「西洋音楽史」中公新書)        

  (社会文化塾 佐々木 邁)

ボヘミアへの郷愁を生んだ独自の「新世界」 〜ドボルザーク
◎…ウィーンに次ぐ音楽の都がチェコの西半分・ボヘミア地方である。後期ロマン派の中でも民族の独自性を主張する「民族楽派」の名作曲家を輩出した。『モルダウ』のスメタナ、『新世界』のドボルザーク、『巨人』のマーラー、『シンフォニエッタ』のヤナーチェク(東のモラヴァ地方出身)…。(続きを読む)

いずれも独特の音階を使い、古くからの民族音楽を多用したりして「故郷への愛」を色濃くにじみ出している。中でもアントニン(ドイツ式ではアントン)・ドボルザーク(1841-1904)は小品から交響曲のような大作に至るまで、その調べを一貫して流れるのはふるさとを切々として思い続ける「望郷の思い」である。
◎…ドボルザークはプラハの西・ドイツ国境に近い田園地帯で生まれ育ち、この地を終生愛し続けた。小さな畑の緑のモザイク、まばらな家の屋根が光る丘陵地帯、小ぢんまりとした街並み…。そのドボルザークが、招聘されて大都会ニューヨークのナショナル音楽院院長としてアメリカに渡ったのは1892年、51歳のときだった。初め彼は行くのをいやがったが、15,000㌦という年俸(当時務めていたプラハ音楽院の報酬の25倍)は、当時6人の子持ちだった彼には魅力的だった。
◎…だが、たちまちのうちにホームシックが彼を襲う。彼は音楽を教えるよりも、作曲に打ち込むよりなかった。しかしながら、この3年の滞在の間に(この間5ヵ月の帰国)、交響曲第9番『新世界から』、弦楽四重奏曲『アメリカ』、チェロ協奏曲という世界の音楽史上屈指の傑作が生まれるのである。アメリカでの生活はさびしく、つらいものだったが、この体験こそがドボルザークの業績を飛躍的に高めたいしづえになったのである(転勤の多いサラリーマンなどにはなぐさめになるのでは?)。
◎…これらの曲はいずれもアメリカの様相を直接的に描いたものではない。アメリカという大都会にいながら、ボヘミアの田園地帯を懐かしく思い浮かべて、望郷の思いつのるままに作曲したのだ。『新世界』第2楽章の、あのあまりにも有名な旋律(ラルゴ『家路』)は音階からしてボヘミア調だ。この部分は「ヨナ(4・7)抜き」音階、つまり変ニ長調の4音(ハ長調のファ)と7音(シ)がない。このような音階を使うと素朴な曲になるとして、以前から使われてきた。例えば『蛍の光』や『七つの子』などにも使われていて、この音階によれば、親しみやすく、郷愁を誘う旋律になるという。(NHK番組などによる)
◎…また第2楽章で急に音が止まるところが3カ所ある。これはフェルマータ(𝄐 適度に長く伸ばす)が音符でなく休符の上に指示してあるので、音がやや 長く消えてしまう部分が出てくる。ドボルザークはなぜ曲を中断させたのか…。それは西洋的、論理的な時間をあえて止め、自己内部の本来の自分と向かい合う時間をとった。そこに望郷の思いを込めた…というのだ。(以下も含めて玉川大・野本氏の分析参照)…とすれば誠に深みのある、心境と表現がうまく合致した画期的な試みと言うほかはない。
◎…ドボルザークはアメリカ滞在中に黒人霊歌にも関心を持ったようだ。『新世界』第1楽章の第2主題にフルートによる次のようなメロディがある。
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この部分は黒人霊歌“Swing low, Sweet Chariot”の出だしに続く“Coming for to carry me home.”の旋律とよく符合する。黒人霊歌の旋律を取り入れたのだ。
 ドボルザーク自身も「私はアメリカ音楽を素材に取り入れ、発展させた」と言っている。黒人霊歌の影響を
 取り立てて言う必要はないが、ボヘミアの素朴な調べと相通じるところがあるように思える。
 ◎…さらにこの部分では、ボヘミア民謡によく使われる「長-短-短-長」というリズムが使われて、ボヘミア的な世界を現出させている。こうしてドボルザークは、自分が学んだヨーロッパ音楽と、生活を体験したアメリカ音楽に、懐かしいボヘミアの曲調を融合させて、まさにドボルザークにしかできない独自の「音楽の新世界」をつくり上げた。それは見事に成功し、後世に永遠に残ることになったのだ。
◎…日本にはドボルザークが好きな人が多い。メロディが母の懐のようなやさしさと親しみをもち、懐かしい純朴さで郷愁をそそる。といって素朴なだけでなく、その心地よさが、曲の進行とともに次第に激しく高まって行って最高潮に達する…そんな曲のつくりになっているからだろう。人気のある交響曲第8番も、第4楽章の途中のゆったりしたメロディ(長くラジオの音楽番組のテーマ曲になっていた)を中心に、我々の望郷の思いを誘う。日本やアジアの感性とも相通じるような気がするのは、もしかして、東方の騎馬民族(蒙古やフン族)の版図拡大によって、アジアの文化がボヘミアにも伝わって行ったせいか…という気もするのだが…

(社会文化塾 清水まさみ)


「フィランソロビー」にたどりついた〜サラサーテ
◎…パブロ・デ・サラサーテ(1844-1908)はスペイン北東部パンプローナの音楽的で質素な家庭に生まれた。パリ音楽院で学び、ヴァイオリニストとして、また作曲家として活躍し、最後はフランス・ピアリッツで慢性気管支炎で死去した。彼の作風からは、彼の受け継いでいるスペインとフランスの伝統に加え、ロマ(いわゆるジプシー)的ともいえる遊動、悲哀、衝動、即興の要素がうかがえる。続きを読む)

◎…彼を知るには代表作の『ツィゴイネルワイゼン』を抜きに語ることはできない。1878年に作曲され、同年ライプツィヒで初公演され、現在でもおそらく世界で最も人気のある作品である。ツィゴイネルがドイツ語で「ジプシー」を意味し、ワイゼンは「歌」の意味。チャルダーシュという1850~1880年代に人気のあったハンガリーの田舎の民族ダンスのリズムが多く使われている。チャルダーシュはシンコペーションのリズムをしばしば伴った2拍子の音楽で、威厳や誇りを表す遅いテンポの部分と速いテンポの部分が組み合わされている。
◎…ヴァイオリニストとしてのサラサーテの名声は、完璧なまでの演奏技術にあるといわれたが、半面、その演奏は感情表現の変化に欠け、表情が乏しいと批判もされた。一方、彼が作曲した作品は、その高い演奏技術が存分に発揮でき、聴衆に強い印象を与えるのを目的としたような曲だともいわれる。彼は社交上でも大変機転がきく二枚目として知られ、彼のそのような魅力も、裕福で影響力のあるファンの人気を不動のものにした重要な要素である。
◎…サラサーテはヨーロッパから南北アメリカにわたる大演奏旅行を行い、各地で大成功して1870年にパリに戻ってくる。そして彼は生涯に築き上げた巨万の財産のすべてを慈善事業に投じた。「フィランソロピー」という言葉があるが、これは慈善事業、博愛、人類愛などを意味し、その実践者を「フィランソロピスト」という。彼が人生で最終的にフィランソロピストにたどりついたのはどういう理由であったか、定かではない。ただ政治的、哲学的な観点からこの種の活動を評論する文献は多い。
◎…現代の超富豪第1位は米株式投資家ウォーレン・パフェットであり、第2位はマイクロソフトのビル・ゲイツだが、2人とも財産を慈善事業に投じている。小国なら数十カ国分の国家予算に匹敵する個人財産を持つともいわれる2人の「富の配分」についての対談は、固唾(かたず)をのむ思いだ(2008年2月 NHK BS1)。「成功とは、自分を愛してくれる人が周りにいる人生だ」というパフェットの言葉が印象に残った。パブロ・サラサーテの当時の心境も、おそらくこのあたりにあったのではあるまいか。


 〈参考:五島みどり「みどり通信」〉    

        (社会文化塾 伊藤 泰雄)


わが国のロマン派の巨匠〜山田耕筰
◎…三木露風作詞・山田耕筰作曲の『赤とんぼ』…日本人でこの歌を知らぬ人はいないだろう。山田耕筰は1889年に東京で生まれた。東京音楽学校(現東京芸大)声楽科を卒業して、1910年、三菱の岩崎小弥太の援助を得てベルリン高等音楽学校へ留学し、作曲法を学んだ。(続きを読む)

1994年に帰国してからは、日本最初の交響楽団を組織する一方、歌劇『黒船』のほか交響曲や後世に残る多数の歌曲を作曲した。また再三にわたって渡欧し、ヨーロッパ音楽の“真髄”を紹介し、広めた功績も大きい。
◎…耕筰は歌詞の語感や抑揚、イントネーションを重視した。歌の1番から3番までが必ずしも同じ旋律ではなく、言葉のアクセントと情景に合わせてメロディを自在に変えた。それがまた、バラエティに富んだ効果を生み出した。『からたちの花』が典型だが、1番と2番、3番とが違うメロディになってそれぞれの情景描写に進み、独自の深みを出す結果になっている。
◎…『赤とんぼ』は1926年に、神奈川県茅ヶ崎市南湖の自宅で作曲したという。この自宅にはファンが立てた看板がある。この曲は詞の力も大きい。作詞の三木露風は1889年兵庫県生まれ。北海道函館郊外のトラピスト修道院の講師をしていた1920年ごろ、生まれ故郷の赤とんぼを思いえがいて作詞したといわれる。
◎…この曲は関東出身の人にとっては、「赤とんぼ」の部分の「あ」にアクセントが来る抑揚に違和感があるかもしれない。が、作詞者が播磨育ち、作曲者が神戸の中学を卒業ということになれば、細やかな言葉の使い分けは当然といえるだろう。
◎…山田耕筰が創立した交響楽団は多くの困難に遭い、裏切られもし、多額の借金を抱えた。巨匠は傷心の日々を茅ヶ崎で送った。しかし松の生い茂る砂丘、晴朗な空気、それに子どもたちの純朴さ…そんな風景と環境に打たれてつくった歌曲が、耕筰の心をいやしたに違いない。

      《参考:「音楽小事典」音楽の友社》   

        (社会文化塾 中川 清)